万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多言語対応選考の解き難い矛盾

2023年07月10日 11時26分08秒 | 社会
 日本国内には、様々な社会活動を行なうボランティアのNPOが設立され、民間の非政治団体ながらも政府から公式に認定を受けています。Living in Peace(LIP)も認定NPO一つであり、「機会の平等を通じた貧困削減」を目的として、難民の就職活動などを支援しています。ハフポストのweb記事によりますと、同団体、今月に「外国人の働きやすさを評価する指標42項目」を発表したそうです。特に「採用」に関して企業に多言語対応を求めたことから注目されることとなったのですが、同団体が求める多言語対応には、無理があるように思えるのです。

 LIPは、民間のボランティア団体なのですが、国立大学である東京大学の研究者との共同開発ともされ、補助金のみならず、直接、あるいは、間接的に国費が投じられている可能性もありましょう。その一方で、ここで思い起こすのは、世界経済フォーラムが描く未来ビジョンです。同ビジョンでは、‘将来のグローバル化した世界は、‘多国籍企業、国際機関を含む政府、並びに、選ばれた市民団体(CSOs)間の3協力によって最も良くマネージされる’としていますので、LIPも、同フォーラムの認定‘CSO’なのかもしれません。この推測が間違っていなければ、同上の42項目が‘評価指標’と表現される意味を察せられます。

つまり、日本のNPOであるLIPが開発したとされる基準は、本当のところは世界権力が全世界の企業を評価するための‘グローバル指標’であるとも推測されるのです。かくして、LIPの指標については慎重にその意図を見極める必要があるのですが、実際これらの指標を採用しようとしますと、越えがたい高い壁にぶつかってしまうように思えます。
 
 第1に、真の意味での多言語への対応は、全世界の言語数からすれば不可能である点です。何故ならば、全世界の言語数は、7000以上を数えるからです。公用語の数に限ればこの数は少なくなるものの、インドを例にとれば、ヒンディー語を公用語としつつ、準公用語の英語の他に22の指定言語が存在しています(連邦レベルの公用語であるヒンディー語を話さず、指定言語のみを使用するインド人も存在する・・・)。多言語主義による採用を文字通りに実践しようとすれば、膨大な数の言語を想定せねばならず、企業の負担は計り知れません。仮に、同指標に基づく企業評価が対応言語数に比例するとすれば、より多くの言語専門家を雇用することができる、資金に余力のある企業のみが高評価を得ることとなりましょう。

 そこで、第1で指摘した問題に対応するために、使用者数の多い言語、あるいは、国連公用語の六カ国語に絞り込もうとするかもしれません。しかしながら、ここでも第2の問題にぶつかってしまいます。それは、使用者の多い英語、中国語(ただし、北京語、東北語、広東語、上海語の違いがある・・・)、スペイン語、アラビア語、フランス語、ヒンディー語などであれ、国連公用語であれ、それ以外の言語を使用する人々に採りましては、明確なる言語による‘就職差別’となってしまう点です。LIPは活動目標として「機会の平等を通じた貧困削減」を掲げておりますので、使用する言語によって平等な就職機会が損なわれるのですから、これでは自己矛盾となってしまいます。

 また、第3として、言語は、他者とのコミュニケーション手段である点を挙げることができます。何故、言語がコミュニケーション手段である点が問題となるのかと申しますと、外国語を話す人を一人採用する、あるいは、それぞれ言語が異なる人々を採用した場合、他の人々との間のコミュニケーションが極めて難しくなるからです。例えば、多言語対応による採用の結果として、日本語を話すことができず、ヒンディー語を話語とするインド人を一人採用したとします。このケースでは、採用されたとしても、日本語を話す他の日本人社員と意思疎通を行なうことは殆ど不可能となりましょう。また、同様に多言語対応選考の結果として、英語を話す人、中国語を話す人、スペイン語を話す人、アラビア語を話す人をそれぞれ一人づつ採用したとします。このケースでも、これらの外国にルーツのある人々の間、あるいは、日本語社員との間で円滑なコミュニケーションをとることは極めて困難です(多言語翻訳機を導入する方法もあるものの、コストや時間がかかってしまう・・・)。

 第3の問題についても、皆が共通言語を使用すればよいではないか、という意見もあるかもしれません。しかしながら、英語のみとなれば、多様性の尊重どころか言語の画一化を意味してしまいます。これでも自己矛盾となるのですが、とりわけ途上国にあって十分な英語教育を受けることができるのは一部の豊かな人々に限られますので、元より貧しい人々は応募することさえできないこととなりましょう。LIPの目標は、「機会の平等を通じた貧困削減」ですので、多言語対等の選考は、貧困撲滅の効果は薄いとしか言いようがありません。

 以上に主要な問題点について見てまいりましたが、LIPが薦める多言語対応の選考は、解き難い自己矛盾を抱えているように思えます。無理を押してまで同指標に合わせようとしますと、結局は、世界権力の描くディストピアな未来に人類が誘導されてしまうのではないかと危惧するのです。

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マイノリティー救済は‘罠’なのでは?

2023年07月07日 11時05分55秒 | 統治制度論
 社会・経済的に不利な立場にあるマイノリティーの救済は、現代国家にあって政治が解決すべき課題とされています。とりわけリベラリズムを掲げるアメリカの民主党政権は、アファーマティブ・アクションにも象徴されるように、歴代、人種差別や社会的格差是正に積極的に取り組んできました。そして、今日では、救済されるべきマイノリティーとされる対象は、従来の人種や民族に留まらず、LGBTQといった他の領域にまで広がっています。

 貧困や病気に苦しむ弱者の救済事業は、現代国家に始まったわけではなく、日本国の歴史を振り返りましても、今からおよそ1300年を遡る奈良時代には悲田院や施薬院等が設けられたとする記録があります。こうした救済事業は、その対象となった助けを必要とする人々のみならず、為政者が国民に対して慈悲深さをアピールする効果もあったのかもしれません。何れにしましても、国民の多くは、弱者を救済しようとする為政者の姿を好意的に受け止めていたことでしょう。

 過去の歴史にあっては稀であった弱者救済事業は、今日の国家では凡そ社会福祉政策として実施されており、誰もが弱者となり得る故に、国民に物心両面において安心感をもたらしています。その一方で、リベラリズムが推進しているマイノリティー救済政策には、その真の目的を慎重に見極める必要があるように思えます。弱者救済は、道徳や倫理に照らして多くの人々の支持を得やすい、否、異議を唱えるのが憚られる政策故に、悪用されやすい側面をも持つからです。それでは、マイノリティー救済には、どのような弱点が潜んでいるのでしょうか。

 第1に指摘し得るのは、必ずしもマイノリティー=弱者とは限らない点です。例えば、ユダヤ系の人々は、その厳格な宗教的戒律のために独自の閉鎖的なコミュニティーを形成してきたため、ゲットーなどに居住させられたり、ナチス政権から迫害を受けるといった歴史を背負っています。その一方で、金融界を制する故にマネー・パワーを全世界に対して存分に発揮していますので、弱者とは言いがたい存在です(世界権力の主要勢力・・・)。アメリカでは民主党の支持母体でもあり、マイノリティーの優遇は、強者の特別扱いに転じかねないのです。日本国内でも、ソフトバンクの孫正義氏やパチンコの事業者など、韓国朝鮮系の人々には富裕層に属する人々が少なくなく、また、最近増加している中国系の人々の中にも、起業家であったり、日本国内で不動産などを買い漁る資産家も見受けられます。こうした現実からしますと、マイノリティー=弱者の定式を利用した、マイノリティー富裕者による特権の保持という目的が推測されるのです(世界権力は、外部のスポンサーとしてマイノリティーの一部に富や権力を与えることで、代理支配並びに圧力団体の育成を目論んでいるのかもしれない・・・)。

 第2の問題点は、政策の対象がマイノリティーであるために、民主主義のシステムとの間に不整合が生じることです。民主主義とは、自由な議論を前提としつつも、最終的には多数決を是とします。極端な言い方をすれば‘マジョリティーによる政治’とも言え、国民世論に沿った政治がその理想とされるのです。ところが、マイノリティーは数としては少数ですので、政治を動かす力に欠けています。自らの声が政治に届かず、その要望が政策化され難いという問題を抱えているのです。そしてこの側面こそ、民主主義国家の政治システムにあって、弱者の代弁者として政府が‘上からの救済’として自らの政策を実施する口実を与えることにもなるのです。

 そして、第2の問題に関連して第3点として挙げられるのは、マイノリティーの救済が政治の中心課題として位置づけられた場合、政府がマジョリティーに対する政策を疎かにする、あるいは、その声を無視する傾向が強まる点です。行きすぎたマイノリティー救済政策は、民主主義の中核となるマジョリティー(世論)の軽視を正当化してしまうのです。しかも、財政面に注目しますと、少数者であるマイノリティーを対象とした政策の方が、対象者が限られますので予算は低レベルに抑えることもできます。このことは、マジョリティーである一般納税者は税負担に苦しむ一方で、給付金、補助金、サービスなど、税負担に見合った形で還元されないことを意味します。民主的国家体制が、国民搾取型のシステムへと変貌してしまいかねないのです。実際に、日本国政府を見ましても、リベラルなバイデン政権、否、世界権力の政策方針に追随しているため、同傾向が強まっているように見えます。

 このように考えますと、マイノリティー救済政策には、民主主義を体よく封じてしまう手段ともなり得るリスクがあるように思えます。そして、この手法が、世界権力による上下挟み撃ち戦略の一環であるとするならば(マイノリティー強者によるマイノリティー弱者の利用・・・)、中間層の破壊と民主主義の喪失が同時進行することともなりましょう。世界権力が描く人類の未来像が、同作戦の末に等しく貧困化した人類のデジタル全体主義に基づく画一的な管理であるとするならば、マイノリティー保護政策の背景をも注意深く観察し、日本国民をはじめ各国の国民は、自らに仕掛けられた罠から逃れる方法を真剣に考えるべきではないかと思うのです。

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ハーバード大学は‘世界の縮図’?

2023年07月06日 13時07分41秒 | 社会
 アメリカでは、先日、アメリカの連邦最高裁判所が、社会・経済的に不利な立場にあったアフリカ系並びにラティーノ系の人々を対象に実施されてきたアファーマティブ・アクションを違憲とする判決を下したばかりです。同判決への‘意匠返し’なのでしょうが、今度は、チカ・プロジェクト、ニューイングランド経済開発アフリカン・コミュニティ、並びに、ボストン都市圏ラティーノ・ネットワークの三人権団体が、教育省に対してハーバード大学が長年に亘り行なってきた白人優遇入学選考制度の撤廃を要求するという、思わぬ展開を見せています。双方とも、入学選考における‘優遇措置’を問題にしているのですが、同大学における一連の異議申し立ては、‘世界の縮図’のようにも思えてきます。

 今日、グローバリズムの進展の中で中間層の崩壊が進むと共に、何れの国でも、富が極めて少数のグループに集中し、社会的流動性も低下傾向にあります。二極化の現象は日本国内でも指摘されていますが、とりわけ富裕層が多数居住しているアメリカではこの傾向は強く、アフリカ系やラティーノ系のみならず、今では、かつて中間層を形成してきた人々の多くもホワイト・プアーとして貧困層に属するようになりました。全世界の人々に希望を与えてきたアメリカン・ドリームも、もはや、過去の夢でしかないのが現状です。

 先進諸国に見られる中間層の崩壊という現象は、グローバリストの富と権力への飽くなき欲望の結果とも言える側面があります。何故ならば、世界経済フォーラムをもって‘世界政府’とも称されたように、各国政府に対して自らの政策、即ち、中間層を消滅に導く政策を実行させるほど、マネー・パワーが威力を発揮するようになったからです。そして、その戦略の基本には、富裕層に特権を与える一方で、マイノリティーを優遇するという、上下からの挟み込み作戦があったものと推測されます。今般のハーバード大学の入学選考制度をめぐる一連の出来事は、同戦略に綻びが生じてきた兆候であるのかもしれません。

 因みに、アメリカの大学では、入学選考に際して「ALDC(Athletes, Legacy, Dean’s interest list, and Children of faculty and staff)」という特別枠があり、略字のそれぞれは、スポーツ推薦、両親のどちらかが卒業生の子女、学部長リスト登載者(大口寄付者の子女)、教授・大学職員の子女を意味します。報道されている記事を読む限り、今般の異議申し立てでは、LとDとCの三つの枠が問題視されているようですが(大学が教育・研究機関であることを考慮すれば、スポーツ推薦だけは‘お目こぼし’なのも不自然なのでは・・・)、ハーバード大学入学者の内訳をみますと、凡そ40%の白人系入学者の内、「ALDC」入学は43%程度を占めるそうです(もっとも、アメリカの大学は、入学は容易なものの卒業は難しいとされていますので、入学者の全員が卒業証書を手にすることができるわけではない・・・)。なお、かくも多方面からの優遇措置が存在しながら、ハーバード大学がグローバル・大学ランキングで上位校の常連であるのも、不思議と言えば不思議なのです。

 かくして、今般、上下両者に対する優遇措置が問題となったのですが、仮にこれらの制度が廃止されば、アメリカの中間層が復活するチャンスともなるかもしれません。現行の制度にあって、最も不利益を被っているのは、富裕層でもなければマイノリティーでもない一般のアメリカ国民であるからです。現行の制度では、特別枠を利用できない学生の多くは、狭き門となる上に、有名大学の何れも学費が高額であるため、たとえ勉学に励んで合格したとしても、入学の時点、即ち、十代の若さで巨額の借金を負わされることとなります。高い学費がハードルとなって、入学志願を諦めざるを得ない若者も少なくないことでしょう。

 そして、この問題の先には、高額の学費や有償の奨学金制度等を含め、大学、否、教育とはどうあるべきか、という基本問題も見えてきます。何れにせよ、志願者が公平に評価され、真に学びたい人々が入学し、かつ、学問やテクノロジーの発展に貢献するようになれば、極少数のグローバリストの目指す‘中間層がいない世界’とは違った未来が訪れるのではないかと思うのです。

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規制緩和という名の‘新しい規制’

2023年07月05日 14時14分21秒 | 日本経済
 世界経済フォーラムの理事でもある竹中平蔵氏の主導の下で自公政権が推進してきた新自由主義政策の基本方針の一つに、規制緩和があります。規制緩和とは、従来の日本国の規制レベルの高さが経済成長の阻害要因であるから、規制を緩めれば企業活動の自由度も増し、‘失われた20年’から脱却して成長軌道に乗ることができるというものです。‘規制’という言葉には、人々の行動を縛るものとするイメージがありますので、多くの人々が、新自由主義者の規制緩和論に理解と賛意をしめしたことでしょう。しかしながら、果たして規制緩和によって、日本企業の自由度は高まった、あるいは、高まるのでしょうか。

 自公政権の来し方を見ますと、‘岩盤規制を打ち破れ’とばかりに政府が拳を振り上げたのですから、実際に、様々な分野において規制が緩和されています。特に新自由主義者が狙いを定めた分野の一つが、インフラ事業を含む公的分野でした。通信や郵便事業といった目立つ事業のみならず(第二次小泉内閣において竹中平蔵氏が郵政民営化担当大臣を務めた・・・)、細かな点に注目しますと、中央官公庁や地方自治体の行政業務の民間委託も広がっています。

 しかも、民営化は同時に、公共性の高い事業に海外資本が流入し、経営参入に道を開くことともなりました。民営化には証券市場への上場をも伴もないますので、海外投資家等も株主としてステークホルダーとなりましたし、再生エネ事業に至っては、海外事業者の直接参入も見られたのです。すなわち、日本国のグローバル化とは、自国のインフラ市場や政府調達部門を‘規模の経済’で日本企業を圧倒する海外勢力に明け渡す結果を招いたと言えましょう。国境を越えたマネーの自由移動がグローバル企業のM&Aを活発化し、公的分野のみならず、民間にあっても日本企業の‘海外売却要因’となったことは言うまでもありません。

 なお、アメリカのGAFAMや中国のBATをはじめIT大手の大半は海外企業ですので、行政のデジタル化は、情報漏洩のリスクのみならず、世界権力の配下にあるグローバル企業への依存度を高めています。この依存性は、日本国の統治機構が‘世界政府’のデジタル・ネットワークに取り込まれるリスクをも意味しています。

 そして、もう一つ、新自由主義者がターゲットとしたのは、日本国の労働慣行でした。これまで派遣業は中間搾取的な事業であるために規制が設けられてきましたが、規制緩和の波に乗って同雇用形態も解禁となり、日本国の労働市場では非正規雇用が激増することにもなりました。今日では、正規採用者も安泰ではなく、非正規社員化ともされる日本型雇用からジョブ型雇用への転換も迫られています。

 規制緩和の結果、今では中央官庁でも、地方自治体のお役所でも、国民や市民に応対するのは業務を受託した民間企業の社員であったとするケースも耳にします。コロナ・ワクチン接種事業を請け負ったのは、竹中氏が代表取締役会長を務めるパソナグループでしたし、民営化の現実とは、むしろ、非正規社員を多数雇用しつつ、公金に頼る、あるいは、群がる巨大な企業群を生み出したとも言えましょう。

 以上に日本国における規制緩和の顛末を簡単に描いてみましたが、新自由主義者の説明どおりに、行政の縛りから解放された日本企業が活発に経済活動を展開し得る自由な市場が出現したわけではなかったようです。逆に、グローバル・スタンダードという新たな規制の導入により、日本国政府並びに日本企業が独自の雇用形態を維持したり、あるいは、新たな形態を生み出してゆく機会が一切失われてゆく過程として理解されるのです。‘新しい規制’とは、世界権力に富も権力も集中させるための規制であり、その基本原則は、‘政府は、法人を含めて自国の国民を保護してはならない’というもののように思えるのです。すなわち、政府は、規制緩和によって自国の市場も国民も世界権力に差し出さなければならないのです。

 規制には、強者による横暴を制御するという意味で保護の役割を担う側面と、自由を束縛する側面がありますが、全てとは言い難いものの前者の側面が強かった日本国の規制を緩和した結果、グローバル・スタンダードとして束縛型の規制が新たに導入されたようなものです。SDGsが猛威を振るい、自己責任の原則の下でジョブ型の導入が正規社員の雇用も不安定化する中、世界権力が推進するグローバリズムとは、一体何であったのか、日本国政府も国民も、改めて問い直してみる時期に差し掛かっているように思えるのです。

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国民不在の男女共同参画政策

2023年07月04日 10時43分54秒 | 日本政治
 従来の慣習や制度、あるいは、過去の歴史に起因して不利な立場にあった人々を救済するために、これらの人々を対象とした特別枠を設ける手法は、アメリカのアファーマティブ・アクションに限ったことではありません。例えば、近年では、SGDsの旗振り役の国連や世界経済フォーラム等が、ジェンダーによる差別解消をグローバル・アジェンダとして設定しているため、日本国政府も、巨額の予算をもって積極的に男女共同参画政策を推進するようになりました。先日公表された「女性版骨太の方針2023」もその一環なのですが、経済界でも、プライム企業の東証上場の条件ともされるため、達成目標年とされる2030年を目処に役員の30%を女性とすべく、人事改革を急いでいます。

 しかしながら、この政策、果たして国民が真に望んだ結果なのでしょうか。民主的国家であれば、国民からの要望⇒政治レベルでの法案化⇒議会での審議・修正⇒多数決による採択⇒立法という過程を経て法律が制定されるはずです。ところが、現実を見ますと、出発点となる‘国民からの要望’が抜け落ちているケースが大多数を占めています。政府提出の法案ともなりますと、その大多数が国民無視の法案ばかりであり、年々、この傾向は強まっているようにさえ思えるのです。

 ジェンダー問題については、古老の女性が一族の長となる母系社会もないわけではないものの、古今東西を問わず、男性と比較して女性が不利、あるいは、劣位の立場にあったことは確かです。チンギス・ハーンのモンゴル帝国の如く、征服地の女性を戦利品や‘所有物と見なす国や部族も存在していたのであり、契約や所有といった行為を合法的に行ない得る法的人格も、女性には認められたかった歴史が長いのです。今日でも、女性が家庭内で虐待を受けたり、虐げられるケースは、深刻なドメスティックバイオレンスとして問題視されています。それ故に、ジェンダー間の平等は、社会・経済的に理不尽で不条理な立場に置かれてきた女性達を救うための原則となり、政府による平等化の推進政策も、多くの人々が受け入れてきたと言えましょう。

 しかしながら、ここで政府の政策的手法に注目しますと、果たして現行の政策方針が、国民が真に望んでいるものであるのか、疑わしくなるのです。目的は正しくとも、手段が間違っているケースは多々あります。社会・共産主義国家で試みられたジェンダーの平等は、一切の性差を認めない人間の画一化に過ぎませんでした(中国の人民服を見る限り、どちらかと言えば、強制的な女性の男性化であったかもしれない・・・)。男女の平等については、そもそも、生物学的な違いのみならず、男性と女性とでは幸福の感じ方は同じなのか、あるいは、個人によっても相違があるのではないか、という基本問題から問わなければならないはずなのです。

 また、国民の自由や多様性に関する根本的な議論の他にも、国民の中には様々な意見があるのですから、ジェンダーに関する政策を立案するに際しても、国民から広く意見を求めるべきでもあります。競争条件から平等原則を外す女性枠という優遇制度が導入されるならば、不利益を被りかねない男性側の意見も聞かなければ不公平となりましょう(男性側の不満の鬱積は、むしろ、両性間の分断と反目の原因に・・・)。また、政策の対象となる女性達からの要望も聞かなくては、誰のための政策か分からなくなります。‘女性’と一括りにされてはいても、既婚で働く女性、独身で働く女性、子育てをしながら働く女性、専業主婦、高齢のおひとりさまの女性など、立場は様々であるはずです。政府は、とかくに女性比率の数値目標に拘りますが、大半の働く女性は、情実採用や外部採用になりがちな女性役員枠の設定よりも、人選に際しての平等な扱いや職場等での等しい待遇を求めることでしょう(結果の平等よりも結果の公平・・・)。そして、子育てや介護など家庭内で役割を果たしている女性達からは、また違った視点や立場からの要望があるかもしれません。

今日の政府が掲げる男女共同参画というスローガンは、その命名からして‘女性は社会に参加していない’とする固定概念に囚われているのですが(幕末に黒船で来日したペリー提督は、日本女性が社会的な役割を果たしていることに驚いている・・・)、現行のジェンダー平等政策は、国民的な議論もコンセンサスもなく、世界権力から押しつけられた人類画一化政策の一環のように思えてなりません。ジェンダーの平等、即ち、様々な問題領域に即して平等と公平が適切に配される社会を目指すならば、国民的な議論、並びに、手段を一つに限定せず、国民の多様性を尊重したより柔軟で多彩な手法を考案すべきではないかと思うのです。

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アファーマティブ・アクションが偽善であるもう一つ理由

2023年07月03日 13時29分00秒 | 社会
 フランスの首都パリでは、先月末よりアルジェリア系移民2世の少年が警察官に射殺された出来事をきっかけとして、放火や略奪を伴う暴動が発生しています。この事件、2013年にアメリカのフロリダ州で起きたトレイボン・マーティン射殺事件に端を発したBLM運動とも状況が類似しており、リベラル系の過激な活動団体がサポートしているとする指摘もあります。その背後には、破壊と混乱を以て社会を変革しようとする‘危険思想’の影も伺えるのですが、事件の背景には、人種差別問題があることは否定のしようもありません。

 それでは、この人種差別問題、アファーマティブ・アクションをもって解決するのでしょうか。アメリカのアファーマティブ・アクションとは、1960年代に人種差別反対運動としてアメリカ社会を揺るがした公民権運動の成果の一つとして理解されがちです。公民権運動では、その名が示すように、アフリカにルーツを遡る黒人の人々が白人と同等の市民権を要求されました。道運が功を奏し、今日では、人種の違いに拘わらず、アメリカ市民は、参政権を含め、皆等しい内容の市民権を有しています。法の前の平等は実現したのですが、法的な平等では差別や格差は解消できないとして、結果の平等を求めたことから始まったのが、社会的に不利な立場にある人々に対して優先的に入学や就職の機会を与えるアファーマティブ・アクションです。

自由と平等との間の二律背反性と同様に、公民権運動とアファーマティブ・アクションとの間には本質的な相反性があります。とりわけ、数が限られており、参加者の間に競争・競合的な関係がある状況下では、後者が、優遇条件を持たない人々にとりまして不平等で不公平な制度となるのは既に前回の記事で述べたところです。法の前の平等に照らすならば、受験資格において全ての市民を平等に扱い、採点に際しても一切の偏向を排除すれば、その結果は、誰がみても人種差別なき‘公平な結果’なのです。つまり、選抜を要する競合・競争状態では、‘結果の平等’よりも‘結果の公平’が重要なのです。

かくして、アファーマティブ・アクションとは、全ての人々から支持されているわけでもなく、政策としての論理的正当性に疑いのある政策なのですが、もう一つ、問題点を挙げるとすれば、差別を受けてきたとされる特定の集団の中の一人あるいは少数を選んで優遇するというピックアップ式の政策手法です。この方法ですと、大学の合格者やポスト獲得者の数だけを見れば、確かに人種間に差別はないように見えます。しかしながら、その他の人々はどうなのでしょうか。

アファーマティブ・アクションが始まってからおよそ半世紀の月日が流れておりますが、上述したように、今日なおもアメリカではMLB運動が起きており、未だに人種差別問題が解消していないことを示しています。言い換えますと、この事実は、同政策には、当初に期待されたほどの効果がなかったことを示唆しているのです。むしろ、上述した理由により、優遇措置を受けることができない白人の人々の間には、下駄を履かせてもらえる黒人の人々に対する不満が鬱積してしまいます。一方の黒人の人々も、一部の人々にはチャンスが与えられますが、全体を見ますと貧困が解消されたり、生活や教育レベルが上るわけでもありません。居住地域や婚姻などについても白人の人々との融合が実現しているわけではないのです。逆説的に言えば、優遇措置を受けるためには、現状を維持した方が好都合と言うことにもなりかねないのです。

 実施後の政策評価の結果、効果が認められなければ中止した方が良いと言うことになるのですが、同制度は、結局は、リベラルな人々、否、世界権力による偽善的な人類コントロール装置の一つのようにも思えてきます。結果の平等を掲げて差別されてきたとされる人々の中から数人を選び出し、自らの配下に置いてしまう一方で(植民地支配の手法でもあった・・・)、同グループには一先ずは恩を売ります。その一方で、完全に差別が解消されてしまいますと、自らのコントロールの手段を失うことにもなりますので、双方の反目をもたらすような‘不公平性’を予め制度に組み込んでおくのです。そして、この仕組みは、黒人社会が抱えている貧困、犯罪、麻薬・・・といった問題を、黒人の人々が自らの手で自発的に解決する道をも塞いでしまいます。アファーマティブ・アクションとは、結局は、‘上から’与えられた解決策であり、権力に常に依存せざるを得ない状況にあるためにコミュニティーの内部にあって自力解決能力を育てる機会を失ってしまうのです。

 このように考えますと、フランスにあって、たとえアファーマティブ・アクション政策を導入したとしても、必ずしも解決に至るとは限らないように思えます。むしろ、世界権力の思惑通りに、社会的な分断が深まってしまうかもしれません。そして、マイノリティーとされるコミュニティーが自らが抱える問題に正面から向き合うためにも、一度、アファーマティブ・アクションを全廃してみるのも一つの試みなのではないかと思うのです。

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