万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

移民の自由と責任の問題

2023年07月26日 09時51分04秒 | 社会
 広域的な欧州市場を形成したEUでは、国境を越えた域内の移動の自由は基本原則の一つともされています。EUのみならず、グローバル時代を迎えた今日の国際社会を見ますと、‘移民は正義’とばかりに、国境を越えた人の自由移動は奨励されてきました。近年、移民問題の深刻化を受けて歯止めがかかってきたものの、日本国政府を見る限り、海外からの高度人材の取り込みや人口減少や労働力不足を補うための外国人の受け入れ促進など、移民奨励政策を変更する兆しは見えません。グローバルな移民促進政策は、国連や世界経済フォーラムと言った世界権力の基本方針なのでしょうが、IMOの基本理念に忠実に従うかのように、各国政府とも、移民する側の自由並びに権利保護に政策の軸足を置いていることは疑いようもありません。

 戦争や内戦等によって故郷を追われ、住む家も失い着の身着のままで逃げ出さなければならない事態に直面した人々、つまり難民は、避難先となる受け入れ国にあっては一時的に保護されるべき人々なのでしょう。その一方で、今日にあって大多数の諸国が直面している移民問題は、主に経済的要因によって発生しています。とりわけ、グローバリズムの拡大は、安い労働力を手にしたい先進国のグローバル企業と貧困から抜け出したい途上国の移民希望者との利害を一致させることとなりました。世界権力が、受け入れ国側には‘寛容’あるいは‘忍耐’を強要する一方で、移民の側の保護に熱心であったのも、それが自らの経済的利益に解きがたく結びつていたからなのでしょう。難民と経済移民との区別は曖昧となり、外国人という同一のカテゴリーにおいて手厚い保護の対象となったのです。全世界の諸国において際限なく‘マイノリティー’を創ることができるのですから、移民推進は、世界権力にとりましては一石二鳥、否、それ以上の作戦なのでしょう。

 しかしながら、この構図、受け入れ国側の国民のみに理不尽な負担を強いることとなるのは言うまでもありません。外国人=弱者=保護の対象とする構図が成立している以上、外国人が受け入れ国側の国民の基本的な自由や権利を侵害したとしても、大目に見られてしまうのです。外国人容疑者が何故か不起訴処分となったり、果てには、外国人移民の犯罪組織が‘地下’に広く深く根を張ったり、その居住地域が警察さえ足を踏み入れることができない一種の‘治外法権’と化してしまうといったケースも現れるようになりました。移民の増加によって治安が悪化する原因の一つは、権利保護において国民と移民との間の格差に求められましょう。結果として、法の下の平等原則も損なわれると共に、政府や公的機関は移民の側の権利を厚く擁護しますので、国民は、権利保護という統治機能を十分に受けられなくなるのです。これでは、国家の存在意義さえ問われてしまいます。

 そして、ここで一つ問題として提起すべきは、移動の自由にも責任が伴うのではないか、という問いです。しばしば、‘自由には責任が伴う’とされます。凡そ如何なる自由にあっても無制限な自由はなく、必ずやその結果には責任を負わなければならないという意味です。移動の自由についても、当然に責任が伴うはずです。ところが、先述したIMOの理念(「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」)には、移民の側の責任について言及する部分が欠けています。これでは、移動の自由を行使した結果、受け入れ国側が如何なる被害やマイナス影響を受けたとしても、責任を免除する‘免罪符’が移民側に与えられているかのようです。

 とりわけ経済的な要因による移民は、グローバル人材事業者が営む移民ビジネスにあって債務を負う身ではあっても、自発的に海外に職や居住地を求めた人々です(受け入れ国に対する責任は免除されても、債権者に対する借金の返済義務からは逃れられない?)。こうした人々に対しては、弱者として責任を免除するのではなく、一人の独立した人格を持つ人々として尊重し、責任を求めた方が余程人権尊重の精神に合致しているように思えるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする