甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

フィリピンのおじいちゃんの魂

2025年01月25日 09時57分36秒 | 戦争と平和

 指宿の開聞岳の西の海側に、花瀬望比公園というのがあります。私は一度だけ母たちに連れられて行きました。自分で運転していたわけではないから、90年代半ばのことでした。親戚の方の運転だったでしょうか。

 あれこれつまらない写真を撮っていましたけど、このときは一切写真を撮りませんでした。それどころではなかったでしょうか。

 母もいました。母は、「お父さんが亡くなったのはフィリピンで……」なとど急にスイッチが入って泣き出しました。私は、この海の見える公園は、日本軍の南洋戦略とは関係ないし、ただ南の向こうにはフィリピンの島々があるのかもしれないとは思いました。比律賓(フィリピン)を望む公園だなんて、あまりに悲しすぎたのです。

 現地には行けないけれど、それをはるか彼方にしのぶことはできる。建物などがあると雑念が起きるけれど、何にもない南の海が見えるだけだと、素直にかつてはるか南で、鹿児島の男の人たちが連れていかれて、そこで戦争をしていたというイメージを作りやすかったのかもしれない。

 そんなことよりも、二度と戦争はしない。よその土地に侵略しない。侵略的な国とも、さまざまな手段を通じて交流する。そうすれば、戦争なんか起こすよりも、この関係がいつまでも続くのに、なんて思えるのに、かつての日本という国は、そういうのをイメージできなかったようです。

 よその土地を日本人が支配すれば、日本という国は豊かになるし、産業も盛んになる、なんていう発想でしたか。どこでそんなひん曲がった教育を受けたんだろうな。


 私は、母の泣いてるのに驚き、どうしてスイッチが入ったんだろうという不思議さに吞まれてしまいました。だから、いくつもの銅像が建てられていたのも見ていません。もう昔のことですけど、今度再び行くチャンスがあるのかどうか、それさえわかりません。ただ、フィリピンで戦死したというおじいさんのことは忘れないでいたいと思います。

 だから、母は戦後、天涯孤独になりました。近くの伯母さんに引き取られなかったら、どんなことになったかどうか。

 最近インスタグラムで、鹿児島のおともだちも勝手にできてしまって、その人からこんなだったよと教えてもらって、「そういうことがあったなあ」と思い出すことができました。

 フィリピンは遠い国なのに、私の家のまわりにたくさんのフィリピンの人たちがいます。ものすごく日常的です。かつて日本の軍隊そのほかが大挙してやってきて、今も犯罪組織やら、やばい人たちが本拠地にしてしまっている国ですけど、こちらにいる人たちはみんな明るく、日本軍のしたことなど教えてくれません。そこを話し合えたら、違う世界が見えますけど、なかなか友だちになれないし、フィリピンに行くこともないだろうな。

 ただ、確かに母のお父さん、私のおじいちゃんがいたというのは確かなんだけど、どうして日本の国はそんなところまで侵略しようと思ったのかなあ。それはもうひたすら悲しいのです。それが当たり前だったなんて。





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