もし私が、ブラックホールを近くで取材する宇宙船に乗っていたとしたら、小さな窓から外を眺めて、なんと広大で、怖ろしくて、すべてを呑み込んでしまう果てしない無の存在がそこにある、だなんて、のん気なコメントをするでしょうか。それよりも、早くそこから離れて、もう少し穏やかな空気感のところに行きたいと思うはずです。
少し運転ミスでもして、呑み込まれる気流の中に入ってしまったら、どうしてそんなミスをしたんだよと嘆くよりも早く、何もかもが無になってしまって、悲しいなとでも思う余裕あるかな。地球の皆さま、私の操作ミスでブラックホールに吸い込まれていきます。通信できなくなるまで通信しております。貴重なデータが得られたら幸いですが、何も残らないのが悔しいところです。どんどん引っ張られております。皆さま、どうぞ、お元気で!
なんて言うかな。ブラックホールはものすごい無ですから、自分のすべてが無になるなんて、違う次元に行くようなものでしょうか。とにかく、私という存在が、私たちの世界からはなくなりますね。
でも、誰か仲間がいたら、とにかく今から起こる出来事を一緒に体験するのか、何か辛いねとか、どうしてこんなとこに来たのかなと悔やんだり、あれこれ話すでしょうか。少しだけ気持ちもまぎれますね。
誰かがそばにいるということは、そこに日常の空気が生まれるということになるのかな。できれば、心を許せられる、穏やかな関係の友だちと一緒なら、どんな怖い環境でも、乗り越えられるかどうかはわからないけど、立ち向かえる気がします。
やはり、チームとしての空気がないと、耐えられないな。イヤな空気のあるチームとなら、すぐにそこから一人になりたい。こんなチームからは出て行きたいなんて、後ろ向きになってしまうだろうな。
仲間、ともだち、家族は大事にしないといけないし、いつもいい空気を作らなきゃいけない。ところが私は、単独行動が割と好きなオッサンではありました。いつも独りよがりでした。ひとりで自分とお話して、あれをしてみよう、これをしたらどうだ、などと提案することがあります。
それは楽しい、と思う時もあります。けれども、だれかに楽しかったと言わないと自分の中でまとまらないというのか、一人が好きなはずなのに、実は誰かに聞いてもらいたい気持ちも持ってたりする。この矛盾する感情の中で行ったり来たりしながら、グルグルまわっているようです。
ブラックホールでも、モン・サンミッシェルでも、カシミール高原でも、ヘルソン州でも、どこでも私の知らないところはいっぱいいっぱいあります。でも、そこに誰か友だちでもいれば、全く未知のところだけれど、そこで自分みたいなものでも生きて行ける気がしてしまう。友だちがいないと逃げ出しくなるようなところでも、誰かがいれは、生活できそうです。
ひとりでいることは嫌いではない。でも、誰か仲間をこころの中で求めていたりする。だったら、いったいどっちなんだよ! とはっきりしろと言われると困るけれど、どっちも好きなのです。そして、自分が生きていく時には、誰かがそばにいてくれないと、生きていけない、元気が出てこない、そう思います。
そんなの当たり前のことですね。ひとりでは生きていけないなんて、今ごろわかったの?
いや、そういう訳ではありません。そもそも誰かと一緒に過ごすということが生きているということじゃないですか。ひとり暮らし、という言葉はあるし、そういう生活をしている人はたくさんいます。うちの母だってそうです。でも、やはり、それでも、どこかで誰かに支えられて、一緒の時を過ごすことで生きていける、そう思ったんです。当たり前のことですけど……。