尾鷲市は、湾の少し奥まったところに市街地があります。深く切り込まれた谷なのか、船の停泊地・漁業の中心地として栄えてきましたが、湾を出たらそこは熊野灘で、深く強い流れの黒潮が流れています。
少し南の熊野市は、湾も何もないので、市街地はそのまま熊野灘に向き合っています。昔のキリスト教の世界のように、海の向こうは断崖絶壁の海になっていて、ギリギリのところまで船を出したら、垂直降下しそうな壮大な海で、見るからに恐ろしくなります。南海トラフ地震が起これば、直接津波がやって来そうで、過去にもそうした被害があったようです。
尾鷲と熊野と海岸線をたどろうとした国道311号は、市境のところで建設を断念して、新たなトンネルばかりの自動車専用道がつい最近作られたばかりです。道路も鉄道も、都会から離れたところは断絶してしまうことがあるようです。地域のため、地域の悲願などと言いながら、終わってしまうものがたくさんあるんです。
それで、冒頭の写真は、紀勢線が尾鷲湾を出て、紀伊半島の断崖絶壁を走るのですが、平地がないので、ずっとギリギリのところをトンネル三つくらいを連ねて走る場面です。これらのトンネルを抜けたら、やっと次の入り江の端に出て、少しずつ湾の奥地へ向かう、そんなところを走っているので、途中に駅はできなくて、入江の奥に駅、次の駅はまた別の入り江のところ、そんな風に無理してJRは走るわけですが、難工事だったのか、1959年の7月にやっと尾鷲・熊野市間がつながり、三重県ともゆかりのある小津安二郎監督さんは、新宮、熊野市、尾鷲とロケハンに出たそうで、最後の峠越えのバスにも乗ったということでした。
そのあと、1959年の大映で撮った「浮草」というのは、中村雁治郎さん、京マチ子さん、若尾文子さん、川口浩さんなどの大映系の人たちに出てもらって、撮影は「羅生門」でも世界に名のとどろいた宮川一夫さんが担当されたということでした。
大映で一本、撮ってくれという話は、(大映の大監督の)溝口(健二)さんが生きておられた頃からあったんです。その後、(名ブロデューサーの)永田さんからも縷々(るる)依頼されていたんだが、ぼくは松竹と一年一本の契約を結んでいる。その一本で、たいてい一年が終わってしまう。
ちょうどこの年は「お早う」が早くあがり、もう一本大映でつくるだけの時間ができた。それで年来の約束を果たしたわけです。〈キネマ旬報・自作を語る 1960〉
そうだったんですね。東宝で一本、大映で一本。時間ができたら、作ってあげてたりされたんですね。「浮草」は三重が舞台という話だったけれど、あんまり三重感なかった気がしていたけど、見直せたら、見てみたいですね。