岩手県平泉町の毛越寺は、天台宗の高僧、慈覚大師(じかくだいし)が創建したということだそうです。(850 平安時代の最初のころ)
そんな古い時代にからあったお寺は、やがて荒廃してしまいますが、平安時代末期に、
「藤原清衡(1056-1128)、基衡(-1157?)父子によって再興され、常行堂も復興されました。鳥羽天皇に至り、勅使左少辨富任により円隆寺の宣下を受けたといわれ、勅額及び国家鎮護の勅願文を賜(たまわ)りました。藤原三代秀衡(-1187)は社堂坊舎を増築し、堂搭四十余宇、僧坊五百余宇と「吾妻鏡」(鎌倉幕府が編んだ歴史書)にも記されています。」〈毛越寺のHPより〉
そんなに古い歴史があったんですね。藤原三代が趣味で作ったお寺ではなかった! ちゃんと天台宗なんだそうです。
そもそも慈覚大師さんって、中国にも行かれてますし、延暦寺だってトップに上り詰めておられます。そんな地位も実績もあるお方なのに、東北各地にいろんなお寺を創建されたなんて、あまりにも頑張りすぎです。私はイマイチ理解していなかったです。
それから、平泉は、鎌倉幕府の目の敵にされて、たくさんの建物が焼かれてしまいましたが、毛越寺は寺領を安堵された。でも、時代の経過とともに、何度も火事があり、再建もされたようですが、
「かつて広大な境内に大伽藍が建ち並んでいた毛越寺ですが、今は本堂、常行堂の他、大泉が池と様々の石組からなる浄土庭園、堂宇や回廊の基壇、礎石、土塁、それに堂塔十余、僧坊十七坊が残されているのみです。」(同上)
ということになってしまったそうです。だから、私たちは、その何もないお寺の中に入らせてもらうばかりです。
若いころの私は、「なあんだ、何にもないや」とか思ったものでした。
さて、私は、奥さんが新幹線に乗って一関にやってくる前に、ひとりでこのお寺に来ました。ひとりであれこれ見なくてはいけない。というか、勝手に写真を撮るだけなのかな。
何度か来ています。たいていは真夏で、この日も暑かった。でも、たくさん木は植わっているので、木陰をたどりながら歩けばいいのです。
とはいうものの、何を見たらいいんだ? 花は、ハス池のハスがチラホラ咲いているだけでした。他には、百日紅もないみたいでした。木の花がないのです。いや、もともとそういうのを植えていないようです。
どうしてなの? 私たちは、この池の周りを歩くようになっています。草花はないけれど、きれいな芝生がありますよ。池は、鯉とかがいるみたいなんだけど、そんなに自分たちの姿をアピールする鯉たちではないようです。
先ほどの針葉樹、松林、真っ黒で、日かげを作ってくれていたけれど、改めて振り返ってみると、遠くまで続く砂浜と松林に見えてきましたよ。どこまでも続く広大な海に見えてきました。南側に広がっている。
このお寺の真ん中にある池の西側のところに立ちました。
この黒い石を敷き詰められた海岸は、中州なんだろうか。都市なんだろうか。海に開けた町に見えてきましたよ。
どこまでも広がる松林の西の岸には都市がある、と見立ててみますか。
この岸辺から道は、芝生の中に続きます。内陸をどこまでも歩く感覚なのかな。
みんなが暑い中を、何かを求めて歩いています。普通なら、敷地の真ん中の北側には、本殿とか、お寺の中心となる建物がありますが、何もないのが毛越寺だから、私たちは、その何もないお寺の跡にたどり着きます。
この時計回りにお庭を歩く作業、何かに似ています。ものすごく暑いのだけれど、これは苦行ではなくて、お寺はなくなったけれど、この世の天国を感じさせてもらっているのではないか、とふと思いました。
日陰にいれば、暑くもないし、寒くもない。けだるい雰囲気だけど、とても静かなのです。いろんな人がそれぞれの想いを抱いて、どこでお祈りするわけではないけれど、何とも言えないありがたい、ゆったりした気分が満ちてきます。
人のいろんな活動は、すべてが土の中に埋没して、みんなから忘れ去られてしまうものなんだけど、そこをみんなが何も知らぬようにフワフワ歩いている。
んー、うまく説明できていないけれど、ものすごく空漠としたお寺で、木と池があるだけなのだけれど、ここは私たち人間がめざす天国・パラダイスではないのか、と思ったのです。
とにかく、暑いけれども、ゆったりとした、静かな気分でした。
台風が過ぎた翌日の、ムチャクチャ暑い一日でした。毛越寺パラダイス、また機会を改めて書こうと思います。