お盆の夕方、やっと外に出られそうで、妻と母と私の三人で落合下(しも)の渡しに行きました。下があるということは、上(かみ)もあるんですけど、うちの実家から近いのは下の渡しなんです。
何度か渡し船乗り場から写真を撮っています。三重県にはない、うちの実家ならでは風景だから、散歩ついでに撮りに行くわけです。しかも、ここは思い出いっぱいの渡し船なのです。
母が初めて大阪に出てきた時に住んだところが、西成区の、父の妹さん(私の叔母)が住んでいる所でした。そこに住まわせてもらって、大阪見物やら、これからの将来やら、いろいろと考えたということでした。
やがて、母は父と結婚することを了承し、一緒に住むようになるのですが、それが渡し船を渡ったところの大正区でした。それから六十年以上母はこちらに住んでいます。
けれども、私たちが小さい頃は、母の気に入る服を買うところがなかったそうで、買い物をしようと決めたら、子どもらを連れて渡し船を渡り、対岸の街に買い物に出たということでした。
その東側の土地が見えています。たまたま船が出るところでした。母も妻も呼んで、三人で川を渡ることにしました。もちろん、目的はないから、すぐにそのまま折り返すつもりで、観光気分で乗り込みました。
他のお客さんたちは、みんな自転車を抱えていて、歩いているのは私たち三人だけでした。みんな生活の足として渡し船を利用しています。まあ、当たり前ですね。
観光気分の私たちは乗せてもらえるのか、訊ねてみたら、優しい職員さんは、「いいですよ。乗ってください。」と声をかけてくれました。
すぐに船は動き出して、私たちが今いたところが、どんどん遠ざかります。とはいっても、百メートルと少しくらいだろうか。
太陽はもう少しで沈んでしまいます。
私たちの散歩は、まだ20分くらい歩いたかどうかというところです。
南の工場群と河口の方を撮りました。もう少し向こうの方でこの川は西に大きくカーブするので、大阪湾は見えません。はるか昔はすべて海だったところです。
紀貫之も、ポルトガルの宣教師たちも、石山本願寺をサポートする西国からの船も、みんな向こうの方からやってきました。信長さんは、この海を眺めたこともあったかなあ。秀吉さんは、九州に出かけた時、船で行ったんだろうか。
そして、北の方角、もっと奥には京の都もあります。
今は、少し向こうに京セラドームの屋根が見えるくらいで、大阪城も、四天王寺も、京の都も何も見えません。
確か、平治の乱の時の平清盛さんも、このあたりでスタンバイして、ライバルの源義朝さんが反乱を起こすのを待っていたりしたんでしょうか。
今は、ただの大阪の端っこの河口端なんだけど、いつかはスポットライトが当たる時もあるんだろうかな。そして、かつてはたくさんの歴史が行き来した川でもあったわけです。
私たちは、対岸に渡り、船を下りないでそのまま乗り続け、再び大正区までもどってきました。もちろん、予定通りです。
昔と比べると、少しは川はキレイになりました。工場は廃液を流さず、住宅は生活排水を垂れ流しをしない。だったら、もう少しキレイだったらいいのだけれど、水底まで見えるというものではなくて、水面に小さな魚たちが見えるくらいでした。
さっき、私たちに声をかけてくれた職員さんに「サカナがいますね」と母が訊ねてみました。
「はい、ボラが見えたりもしますよ。」ということでした。
ボラが上がってくる川は、サケが上って来る川みたいではないけど、それなりにサカナが住める環境にはなりつつあるのだ、というのが理解できました。
あともう少し、キレイな水の都にいつなれるのか、それはわからないけど、昔の姿を取り戻してもらいたいのです。
私は、大阪びいきではありますので。