
日本シリーズ第4戦、延長10回でテレビを見るのをやめました。もう後は天に任せる気持ちです。今日サヨナラ負けをして、1勝3敗になっても、私は甘んじてそれを受けたいと思います。選手は一生懸命やっていますが、巨人に立ち向かっていった時のチャレンジ精神を失っているようです。何か、選手のみんながここまで来られて何となく満足、という感じがあります。スタッフも、何となく、よくぞここまで来られたという感覚があるのかもしれません。
王手を掛けられ、失うものが何もなくなって、それでもファンがこんなに応援しているのに、それでもすごすごと負けてくるようでは、野球選手をやっている意味の半分くらいは失っています。やはりファンのために、せめて甲子園に帰るのだ、オレたちはそんなものじゃないと、くらいつく気持ちを前面に出して欲しいです。まあ、阪神打線は、コロッと負けるのはよくあることなのですが、西岡・鳥谷・福留といったベテラン勢はそれなりにやっているのに、どうも若手に元気がありません。上本・大和・ゴメスも若手かな?
彼らが、ファンのことを思うなら、ぜひハツラツとした姿を見せてもらいたい。

さて、井上靖という作家です。昔はあんなに読まれた作家なのに、亡くなって何年経つのかな……。少しずつ世の中から消え去りつつあります。作家は、亡くなると、どんどん読まれなくなるものだと、最近ラジオでだれかが言っていました。それなのに向田邦子さんは「亡くなって30年以上も経つのに、読者が亡くなってからも読み続けてくれて、向田邦子を育ててくれたんです」と、妹さんの和子さんはその番組の中で語っておられました。確かに、亡くなってからみんなが育てる作家というのがあるんですね。宮沢賢治さんなんかも、みんなが育て、大事にして、国民全体の宝になった作家・詩人なんだと思われます。
その一方で、亡くなってからどんどんみんなから忘れられる作家もいる。石川達三・石坂洋次郎・源氏鶏太・山口瞳、もっともっとたくさんたくさんいると思います。芥川龍之介さんだって、少しあやうい気がします。川端康成さんは、入試問題に出てくるだけでしょう。三島由紀夫さんは、入試には出ないでしょうけど、コアなファンが支えてくれるかな。
でも、井上靖さんは、ふたたび復活すると信じて、大好きな自伝物の「北の海」(1975)から抜き書きします。

――潮騒(しおさい)冴ゆる北の海。
いつか蓮実が歌った四高の寮歌の一節が、いまも洪作の耳に残っていた。北の海というのは日本海のことであるが、沼津で毎日のように見ている太平洋とは、潮の色も、潮の騒ぎ方も異なっているであろうと思う。
――ああ、日本海、北の海。
洪作はまだ日本海にお目にかからぬうちから、すでに日本海に対して旅情を感じていた。
旅情といえば、米原駅へ降りた瞬間から、洪作は旅情を感じている。汽車の乗替駅というものは淋しいものだと思う。人々は、男も女も、それぞれに大きな荷物を持ち、子供を背負ったり連れたりして、己が生まれた裏日本の町や村へ帰って行こうとしている。やがて彼等を拉(らつ)し去るために、汽車は白い蒸気を吐きながらホームにはいって来るのであろう。
旅は人生である。いや、人生は旅である、の方が本当であったかも知れぬ。が、どちらにしても同じようなものである。いま、ここに集まっている人たちは、それぞれお互いに未知の人たちである。たまたま、ある夏の朝、同じ列車に乗るために、ここで落ち合ったのである。が、やがて列車に乗ると、それぞれが思い思いの駅に下車して行く。

――離合集散。
まことに人生は旅であり、旅は人生である、と思う。
三十ぐらいの女の人の背で、嬰児(えいじ)が泣いている。その泣いている嬰児にもまた、洪作は旅情を感じていた。この嬰児もまた、裏日本のどこかの町か村で、生い育って行くであろう。いかなる人生がこの嬰児に訪れるであろうか。
洪作は汽車を待つ時間を、多情多感な極めて充実したものとして過ごした。
汽車に乗りこむと、洪作は窓際の席を占めた。がらあきと言っていいくらい、乗客の数は少なかった。
洪作は荷物を持っていなかった。腰のベルトに手拭(てぬぐい)を一本さげているだけである。沼津を発つ時、藤尾から借りた鞄(かばん)に参考書と単語帳を一応は詰め込んでみたのであるが、結局何も持たないことにしてしまったのである。
どうせ五日か六日の短い旅であるし、その間勉強しても、しなくても、たいした差はないと思った。四高生のいっぱい居る町に行くというのに、参考書を持って行くのも気が利かない気がした。着替えは初めから持って行く気はなかった。着ているものが汚れたら洗えばいいのである。
米原駅を出ると間もなく琵琶湖が見えて来た。湖面はいやに白っぽく、まだ早朝だというのに、小舟が何艘か浮かんでいる。
鉄道と文学というのも、私のつまらない趣味のうちの1つで、私はこの一節を読んで、旅情を感じることができました。でも、これは押しつけられても、簡単に他人の旅情を広げることはできないのかもしれません。「しろばんば」「夏草冬濤(なつくさふゆなみ)」「北の海」と、洪作少年と一緒に育つ気持ちのない人には、つまり小説を育てようというこころのない人には、たぶん旅のガイドと同じで、グルメだったり、神霊スポットでないと、世の中の人は旅心も、物語心も開かれないようです。
残念です。どうしたら、かたくなな人の心を解きほぐして、旅に誘うことができるのでしょうね。
また、考えます。とにかく、今夜も「虚構のクレーン」のつづきを読むことにします。
王手を掛けられ、失うものが何もなくなって、それでもファンがこんなに応援しているのに、それでもすごすごと負けてくるようでは、野球選手をやっている意味の半分くらいは失っています。やはりファンのために、せめて甲子園に帰るのだ、オレたちはそんなものじゃないと、くらいつく気持ちを前面に出して欲しいです。まあ、阪神打線は、コロッと負けるのはよくあることなのですが、西岡・鳥谷・福留といったベテラン勢はそれなりにやっているのに、どうも若手に元気がありません。上本・大和・ゴメスも若手かな?
彼らが、ファンのことを思うなら、ぜひハツラツとした姿を見せてもらいたい。

さて、井上靖という作家です。昔はあんなに読まれた作家なのに、亡くなって何年経つのかな……。少しずつ世の中から消え去りつつあります。作家は、亡くなると、どんどん読まれなくなるものだと、最近ラジオでだれかが言っていました。それなのに向田邦子さんは「亡くなって30年以上も経つのに、読者が亡くなってからも読み続けてくれて、向田邦子を育ててくれたんです」と、妹さんの和子さんはその番組の中で語っておられました。確かに、亡くなってからみんなが育てる作家というのがあるんですね。宮沢賢治さんなんかも、みんなが育て、大事にして、国民全体の宝になった作家・詩人なんだと思われます。
その一方で、亡くなってからどんどんみんなから忘れられる作家もいる。石川達三・石坂洋次郎・源氏鶏太・山口瞳、もっともっとたくさんたくさんいると思います。芥川龍之介さんだって、少しあやうい気がします。川端康成さんは、入試問題に出てくるだけでしょう。三島由紀夫さんは、入試には出ないでしょうけど、コアなファンが支えてくれるかな。
でも、井上靖さんは、ふたたび復活すると信じて、大好きな自伝物の「北の海」(1975)から抜き書きします。

――潮騒(しおさい)冴ゆる北の海。
いつか蓮実が歌った四高の寮歌の一節が、いまも洪作の耳に残っていた。北の海というのは日本海のことであるが、沼津で毎日のように見ている太平洋とは、潮の色も、潮の騒ぎ方も異なっているであろうと思う。
――ああ、日本海、北の海。
洪作はまだ日本海にお目にかからぬうちから、すでに日本海に対して旅情を感じていた。
旅情といえば、米原駅へ降りた瞬間から、洪作は旅情を感じている。汽車の乗替駅というものは淋しいものだと思う。人々は、男も女も、それぞれに大きな荷物を持ち、子供を背負ったり連れたりして、己が生まれた裏日本の町や村へ帰って行こうとしている。やがて彼等を拉(らつ)し去るために、汽車は白い蒸気を吐きながらホームにはいって来るのであろう。
旅は人生である。いや、人生は旅である、の方が本当であったかも知れぬ。が、どちらにしても同じようなものである。いま、ここに集まっている人たちは、それぞれお互いに未知の人たちである。たまたま、ある夏の朝、同じ列車に乗るために、ここで落ち合ったのである。が、やがて列車に乗ると、それぞれが思い思いの駅に下車して行く。

――離合集散。
まことに人生は旅であり、旅は人生である、と思う。
三十ぐらいの女の人の背で、嬰児(えいじ)が泣いている。その泣いている嬰児にもまた、洪作は旅情を感じていた。この嬰児もまた、裏日本のどこかの町か村で、生い育って行くであろう。いかなる人生がこの嬰児に訪れるであろうか。
洪作は汽車を待つ時間を、多情多感な極めて充実したものとして過ごした。
汽車に乗りこむと、洪作は窓際の席を占めた。がらあきと言っていいくらい、乗客の数は少なかった。
洪作は荷物を持っていなかった。腰のベルトに手拭(てぬぐい)を一本さげているだけである。沼津を発つ時、藤尾から借りた鞄(かばん)に参考書と単語帳を一応は詰め込んでみたのであるが、結局何も持たないことにしてしまったのである。
どうせ五日か六日の短い旅であるし、その間勉強しても、しなくても、たいした差はないと思った。四高生のいっぱい居る町に行くというのに、参考書を持って行くのも気が利かない気がした。着替えは初めから持って行く気はなかった。着ているものが汚れたら洗えばいいのである。
米原駅を出ると間もなく琵琶湖が見えて来た。湖面はいやに白っぽく、まだ早朝だというのに、小舟が何艘か浮かんでいる。

鉄道と文学というのも、私のつまらない趣味のうちの1つで、私はこの一節を読んで、旅情を感じることができました。でも、これは押しつけられても、簡単に他人の旅情を広げることはできないのかもしれません。「しろばんば」「夏草冬濤(なつくさふゆなみ)」「北の海」と、洪作少年と一緒に育つ気持ちのない人には、つまり小説を育てようというこころのない人には、たぶん旅のガイドと同じで、グルメだったり、神霊スポットでないと、世の中の人は旅心も、物語心も開かれないようです。
残念です。どうしたら、かたくなな人の心を解きほぐして、旅に誘うことができるのでしょうね。
また、考えます。とにかく、今夜も「虚構のクレーン」のつづきを読むことにします。