ボッティチェリさんは、海から生まれ来るヴィーナスさんを描きました。これは、どこかで見て、強烈なインパクトを受け、そんなに「見事だろう」とか、「すごいだろう」という絵にはなるべく心動かされないようにしてきましたけど、何となく大事なお話の絵、というよりも、伝説を映像化したというのか、教養として身につけて来なければならない絵でしたね。
本当なら、ルネサンス文化を見るためにイタリアに行き、自分の目で見ないことには、とても見たということにはなりません。
ただ知っているというのは、富士山でもそうだし、日光でもそうだし、屋久島だってそうだろうけど、どんなにすごいのはわかっていても、ただ知っているというだけで、自分のものにはなりません。ただ知ってるだけです。憧れになるのかどうか、大抵は諦めてしまっている(私のヨーロッパもきっとそうです。もう行くことはないかも……)
富士山なんて、ずっと憧れていて、中学の時に見て、それから何度か見るチャンスはあったし、二十歳の頃は登らせてもらったりしたけれど、それでもなかなか私の富士山にはなってくれてなかった。
今はもう、ぼんやりとした遠い過去の栄光の富士山の思い出があるだけです。
そう、見たという体験はどんどん風化するし、人間なんて日々新たにしないと、何もかも忘れていくんだろうな。
そんなですから、私はホントはヴィーナスなんて、うわっつらしか語れません。写真でしか見たことがないんですから。
でも、実は、結婚する前に、東京に住む彼女と待ち合わせて、湯河原の海水浴場に行ったことがあって、私はたぶん熱海まで行き、そこから普通に乗り換えて湯河原に着き、彼女は東京からの電車で、駅で待ち合わせたのだと思われますけど、そこでヴィーナスに出会いました!
駅から海水浴場はすぐだったのか、どうして湯河原にしたのか、それはたぶん、電車で見ていて、あそこに降り立ってみたいという私の気持ちがあったからだろうけど、とにかく、二人で海に入りました。
二人とも泳げるわけではなくて、ただ何となく海水浴場に行ってみたい、というだけでした。
泳ぐでもなく、ただ波にもてあそばれてフラフラしていた。
彼女と手をつないでフワフワして、波と時差のある彼女の驚きの声を聞き、何だかしあわせだったの思い出したんです。他愛もない海の一コマです。恥ずかしくないのか、というくらいに他愛もない!
名古屋で、学生時代の友人たちに会ってから、何となく80年代の自分たちがグルグル回っているのか、あの時のことを思い出してしまった。
そして、あの時、交際して六年目でまだ離れ離れではあるけれど、そろそろまわりも結婚させるしかないか、と思い始めていて、そんなまわりに関係なく、とりあえず瞬間的なしあわせがあって、そこにヴィーナスがいた、ということになっています。
最近、ようやくそれに気づきました。もう結婚して三十数年、交際は四十年オーバー、それは大したものだけれど、あの時にヴィーナスさんに海で出会ってたから、私はもうそれをずっと大事にしてきた、というところなのかな。
奥さんが見たら、「何をバカなこと書いてるの」となるんだけど、いや、たぶん、そうだったと思うんだけどなあ。つまらないことを書いてるのは確かだなあ。でも、まあ、そんな気持ちです!