年譜を見ればすぐにわかることなんだけど、私は熱心なフォロワーではなくて、もう何十年も前に佐伯祐三を知ったような気になっていたので、特に何も調べることもないし、たまにポツンと美術館で見かけたとしても、「ああ、こんなとこにポツンと買われてきたのか」と、落ちぶれた芸人さんを憐れむような感じで見ているところがあった。
そんなに何十年もキャリアがあるわけではなく、1928年の8月16日午前11時30分、誰ひとりそばにいるものもなく、30歳の彼は孤独に息を引き取ったという。
6月23日から精神的におかしかったということで病院に入院し、面会制限もかけられていた。だから、妻の米子さんも、そばにいてあげることはできなかったらしい。
二度目のパリは、突き抜けたような画風で、小さくまとまることなんかしておらず、ものすごい勢いで絵を作り上げていった。そうならなくてはならないように、描き、体調も不良で喀血もあり、帰国してもいいくらいだったか。
1927年の9月からのパリ、妻子とともにやってきて、翌年の夏には入院をするわけだから、時間を惜しんでいくつかの作品を描き上げたのだと思う。
「新聞屋」「広告のある家」「郵便配達夫」「ロシアの少女」など、何かのメッセージ性のある作品群が生まれている。
それは確かに、唯一無二の彼が切り取り得たパリだったのだ。それを多くの人たちが受け取り、「これが佐伯祐三だ」と荒々しい、どこか未完成の、作品たちから何か、佐伯の声を聞ける気がして、絵の前に立ったはずだった。
彼がいなくなって100年近くが経過したけれど、私たちはいったいどんな声を聞けたというんだろう。
聞けた、気がしたけれど、それは空耳だったのか。
荒々しいタッチだから、私たちにストレートなメッセージが来るのではないか、と私たちは安易な期待を持っていたのではないか。
実際の作品は、いくつも見せてもらった今となっては、簡単に受け止められるものではないのだと今さらながらに気づく。
確かに、格闘した彼はいた。けれども、作品は、そういう曇り切った私たちのイメージから抜けきれないのだ。短い生涯で、病気がちで、心まで病んだ人のもがきが現れていて、そのもがいた跡を味わえばいい、だなんて、そんな甘い考えでは、たぶん、私たちは写真を見ているのと同じだし、実際にほとんどの作品が写真もOKになっていて、作品を見ているのか、記念に写真を撮らせてもらっているのか、もう何もかも分からなくなって来るのだった。
全く、息づかいの感じられない写真ではあるけれど、今回の作品群の中で私が見つけた佐伯祐三さんは、パリでも、大阪でもなくて、二度目のパリに出かける前に、今の新宿区の下落合あたりの田園の中のアトリエで制作した一枚。
雪の中で、たくさんの人たちが雪遊びをする、人々の笑い声が聞こえてくる静かな一枚だった。パリを描いている時、画家になれたかもしれない。
けれども、二十代後半の佐伯祐三さんは、画家である妻を迎え、山の手ののどかな田園風景の中で、生きて、描いて、生活していた。こんな充実した日々があったのだと今さらながら知った。
パリに再び行く必要はなかった。けれども、何かが彼をパリに行かせて、彼はそちらで健康を損ない、命までも失ってしまう。
代表作はそこでも生まれてはいるけれど、彼が画家として大成するには必要はなかったかもしれない。けれども、結核もあっただろうし、生きる限りパリに向かうのだ、という気概もあった、のかもしれず、私はすごく残念な気持ちでいる。そんなに早く亡くなるなんて……。