昔は、つまらない話でも何か意義があるみたいに話せたような気がします。
「何かお話して!」なんて言われたら、あることないこと、聞きかじり、見たまんま、話をつないで空間を埋める努力をしたと思います。無意味につなげることができた(ような)気がします。でも、それは本当にムダなしゃべりだったとつくづく反省します。だから、今は全く何もしゃべらない、というのが基本になりました。言葉も忘れつつあります。そのうちウーウー、アーアーしか口からでなくなるかもしれないな。
今は、そんなことはしないでぼんやりしているか、何か黙々と作業しています。作業するというのはいいですね。当然アタマは空っぽです。何も動いていない。そんな空っぽのオッサンがここにいます。
なのに、昔は順番に話したりする環みたいなのが好きでした。大人が場つなぎにやるカラオケなんて軽蔑してたかもしれない。どうして仲間といっしょにお話をしないんだよ。どうして歌でごまかして、話し合うことをしなくていいようにするんだよ、と怒っていたかもしれません。
今、アタマは回らず、口も回らないボケおじいになってしまっています。こんなに極端な無言オジイではいけないと思います。できれば適当にしゃべり、歌うことだって、たまにはすればいいと思います。でも、やり慣れていないから、八方ふさがりになっています。
近々、昔の仲間たちに会うのだけれど、私はちゃんと話せるのか自信がありません。そして、何かを口に出す時に、抑制機能がはたらいて、自分の中のあれもこれもつまらないと判断して、話せないのではないか? と思ってしまいます。
村上春樹さんの96年ころの短編で、七番目の男というのがあリましたね。あんな風にみんながそれぞれの取っておきの話をするのかなぁ。そういう空間が蘇ればうれしいです。
私には、それがなくて、淡々とした日常しかなかった気がします。
何か取っておきの話、あるかなぁ? 何だかないですね。恋もなければ、冒険もないからなあ。ただ鳥を見たり、電車に乗ってどこかへ行くだけでした。庭で枯れ枝をゴミ袋に細かくして詰めているだけでした。つまらないなあ。
とっておきの話を探さないと! でも、思いつかないです。