先日、奥さんに勧められて、三重県立美術館でやっているベン・シャーン展を見てきました。
現在のリトアニア(旧ソ連)出身のユダヤ系の画家です。ヨーロッパから迫害を逃れてアメリカに渡ったとなれば、1940年代に渡米かなと思ったら、もうそれ以前にアメリカへ避難したようなことが書いてありました。
アメリカで、才能を伸ばして画家になった人らしい。
美術館の入口に掲げられている絵も、ちらしになっているのと同じ絵で、だれかの顔なのです。
実際に見たわけだから、これはベン・シャーンが誰かを描いたものと作品名が記憶されなきゃいけないのですが、記憶していませんし、どれがという印象に残ったもの(本当はあったんですけど、図録を買わなかったし、記念絵はがきも売っていなくて……)がありません。
どの作品も、私たちのまわりにある現実の中から、これはというものを切り取って紙に描いています。画家の素描・下描きみたいなものといえばいいんでしょうか。
挿絵のお仕事もしていて、たくさんの作品がありました。私は、街を描いた作品がよかったし、できれば絵はがきとかにして欲しかったのだけれど、埼玉県の丸沼芸術の森というところから借りてきたものなので、そこの許可もないし、三重県立美術館だけで絵はがきは作れなかったみたいです。
ネットから借りてきたものではこんなふうに街を描いています。現実にある街を描いているんですけど、人が描かれてなくて、どこか無機的です。非現実的とでもいうんでしょうか。現実なのに現実ではないような感じというのかなあ。
「ここはどこ? どうして誰もいないの? 私はだれ?」みたいな、不思議な浮遊感があります。街角を描くとそういう感じです。
それでは人は? 人は描かないの? と思ったら、入口の看板みたいに、モデルさんから輪郭はどうでもよくて、目鼻だけを取り出して紙に描いています。どれだけ現実のモデルさんに近いのか、それはわからないけれど、取り出されたものは、何かを語りかける力があります。
もう1つ、ネットから借りてきたものだと、こんなふうに人々が描かれています。これも現実にこんなことが起こり得ないけれど、それをモデルさんたちにポーズをとってもらって描いたものでしょうか。
この取り出し方も独特です。人がみんなで横になっているだけなのです。わりと短時間で描けたものかもしれない。なのに、これもベン・シャーンという人にしか描けない味が出ている気がします。
色でごまかさないので、とにかく線が命です。それがどのように描けるか、それが問われています。そして、見事にベン・シャーンさんはうまく切り取れた。
いろんな線の達人がいると思われます。画家はみんな線の達人ではあるでしょうし、そこから絵の世界に入って行っている。ベン・シャーンさんもそこから入り、いろんなお仕事をされた。写真やら油絵やらもあるようです(たぶん、あると思います)。けれども、今回はその素描のようなものを見せてもらって、改めて現実から切り取ることの難しさ・醍醐味を感じました。
現実はたしかにそこにあります。私なんかも、つまらない写真をたくさん撮ります。でも、それは私の見たものではあるけれど、現実ではありません。光やらお天気やら、カメラの位置やら、いろんな条件で切り取れるものは、それらしいものだけれど、現実ではない。
ベン・シャーンさんは、それを切り取ってくれているんですけど、一つ一つに力を与え、新しい現実を打ち立てている、一つの世界といってもいいのかもしれない。比較するのもなんだけど、私の写真は、とても世界を作れていない。ただのへたくそ写真でしかない。
この違いは、それはもう、どれだけ打ち込んだかの違いだろうけれど、1つの世界を作り出せること、それがうらやましいと思え、自分もぜひそれくらいの力を持ちたい。ことばでも、絵でも、写真でも、何かを取り出したい。そういう気にさせる絵でした。
描きたい気持ちにはなるのです。なのに、「さあ、描こう」となると、「何を描くの? 写真でもいいじゃん」になってしまう。それでは、世界は生まれないのです。現実から自分を打ち立てるには、それなりの努力と工夫が必要です。それにチャレンジしなくては!
現在のリトアニア(旧ソ連)出身のユダヤ系の画家です。ヨーロッパから迫害を逃れてアメリカに渡ったとなれば、1940年代に渡米かなと思ったら、もうそれ以前にアメリカへ避難したようなことが書いてありました。
アメリカで、才能を伸ばして画家になった人らしい。
美術館の入口に掲げられている絵も、ちらしになっているのと同じ絵で、だれかの顔なのです。
実際に見たわけだから、これはベン・シャーンが誰かを描いたものと作品名が記憶されなきゃいけないのですが、記憶していませんし、どれがという印象に残ったもの(本当はあったんですけど、図録を買わなかったし、記念絵はがきも売っていなくて……)がありません。
どの作品も、私たちのまわりにある現実の中から、これはというものを切り取って紙に描いています。画家の素描・下描きみたいなものといえばいいんでしょうか。
挿絵のお仕事もしていて、たくさんの作品がありました。私は、街を描いた作品がよかったし、できれば絵はがきとかにして欲しかったのだけれど、埼玉県の丸沼芸術の森というところから借りてきたものなので、そこの許可もないし、三重県立美術館だけで絵はがきは作れなかったみたいです。
ネットから借りてきたものではこんなふうに街を描いています。現実にある街を描いているんですけど、人が描かれてなくて、どこか無機的です。非現実的とでもいうんでしょうか。現実なのに現実ではないような感じというのかなあ。
「ここはどこ? どうして誰もいないの? 私はだれ?」みたいな、不思議な浮遊感があります。街角を描くとそういう感じです。
それでは人は? 人は描かないの? と思ったら、入口の看板みたいに、モデルさんから輪郭はどうでもよくて、目鼻だけを取り出して紙に描いています。どれだけ現実のモデルさんに近いのか、それはわからないけれど、取り出されたものは、何かを語りかける力があります。
もう1つ、ネットから借りてきたものだと、こんなふうに人々が描かれています。これも現実にこんなことが起こり得ないけれど、それをモデルさんたちにポーズをとってもらって描いたものでしょうか。
この取り出し方も独特です。人がみんなで横になっているだけなのです。わりと短時間で描けたものかもしれない。なのに、これもベン・シャーンという人にしか描けない味が出ている気がします。
色でごまかさないので、とにかく線が命です。それがどのように描けるか、それが問われています。そして、見事にベン・シャーンさんはうまく切り取れた。
いろんな線の達人がいると思われます。画家はみんな線の達人ではあるでしょうし、そこから絵の世界に入って行っている。ベン・シャーンさんもそこから入り、いろんなお仕事をされた。写真やら油絵やらもあるようです(たぶん、あると思います)。けれども、今回はその素描のようなものを見せてもらって、改めて現実から切り取ることの難しさ・醍醐味を感じました。
現実はたしかにそこにあります。私なんかも、つまらない写真をたくさん撮ります。でも、それは私の見たものではあるけれど、現実ではありません。光やらお天気やら、カメラの位置やら、いろんな条件で切り取れるものは、それらしいものだけれど、現実ではない。
ベン・シャーンさんは、それを切り取ってくれているんですけど、一つ一つに力を与え、新しい現実を打ち立てている、一つの世界といってもいいのかもしれない。比較するのもなんだけど、私の写真は、とても世界を作れていない。ただのへたくそ写真でしかない。
この違いは、それはもう、どれだけ打ち込んだかの違いだろうけれど、1つの世界を作り出せること、それがうらやましいと思え、自分もぜひそれくらいの力を持ちたい。ことばでも、絵でも、写真でも、何かを取り出したい。そういう気にさせる絵でした。
描きたい気持ちにはなるのです。なのに、「さあ、描こう」となると、「何を描くの? 写真でもいいじゃん」になってしまう。それでは、世界は生まれないのです。現実から自分を打ち立てるには、それなりの努力と工夫が必要です。それにチャレンジしなくては!
自分ではよかれと思って、あれこれ書きなぐっているけれど、乱雑な描写または意味不明のカタコトで、伝わらないし、いかにも味わいがない。あれと同じです。
どうしたらそれを越えられるか? それは切磋琢磨なのだと思います。一人で乗り越えるのは大変です。