facebookは、誕生日を最初に登録させているので、友人になった人たちの誕生日を、こちらが気づくのではなくて、自動的にお知らせしてくれる、有り難いけれども、いささかお節介なシステムになっています。
だから、友だちにはなってみたものの、わざわざ「おめでとう」と声をかけるのも、気が引けるような相手だったら、わかっているけれども、おめでとうのメッセージは控えよう、という時があります。というか、ほとんどが声掛けしないことが多いのです。
そもそも「お誕生日おめでとう」なんて、家族以外から声をかけられたら、「えっ、何で知ってるの? そんな個人的なこと話したっけ?」と怖くなったりします。誕生日は、友だちでもわざわざ言わない、というのが私どものスタイルでした。
でも、今の若い人は、何だって知りたいから、誕生日や血液型と、あれこれ尋ねて、自分はいちいち記憶しないけれど、きっとデータとして保存していくんでしょうか。そういう生活スタイルなら、フェイスブックのお節介も、特に何も感じないのかもしれないです。
なんですが、私には違和感があります。
それで、何日か前から、二人の友だちの誕生日を教えてもらっていますが、私はお二人とも特に何も声掛けしないかもしれない。
そして、一人の方は、この春、亡くなられたということで、いくつかの書き込みを見て、その事実を知りました。
本人はもうこの世にいないのに、彼を懐かしむ人々が次から次とメッセージを寄せているようでした。
私には、本人が読むことができないのに、メッセージを寄せるなんて! facebook以上にお節介なことだし、本人たちは気持ちのやり場もなくて、あれこれと書くのだと思うのですが、何だか自己満足にも見えたりして、彼ならウンウンわかった! とサラリと流せるところが、私には引っかかってなりませんでした。
若くして亡くなってしまった彼は、そこでの写真を見る限り小さくしぼんでいる感じでした。でも、ニコニコと写真に納まり、優しい雰囲気がしています。音楽の世界にいる人でもあるので、音楽に関しては厳しかったかもしれませんけど、基本はやさしく穏やかな人だから、何もかも受け入れていってたと思います。
若い頃はものすごく体も大きくて、立派な体格だったんです。でも、最近は実際にあっていないけれど、小さくなってた。
そして、一度か二度、メッセージも送ったんですけど、返事はなくて、ただの友だちのままでした。そして、急にいなくなってしまった。
またいつか、新潟に行くことがあったら、仏壇にお参りするとかはできないかもしれないけど、彼のことを思い出しつつクルマを走らせたいと思います。
彼から何も言葉は帰ってこないけれど、もう十分いろいろと教えてもらった気がします。だから、それは我慢することにします。そして、祈りたいと思います。何にもならないけれど、彼と私は友だちではあったし、今も友だちです。忘れないで生きていきたいと思います。