奈良の唐招提寺にいました。金堂を見させてもらって、講堂では弥勒菩薩様にお参りして、開山堂では最近になって昔と同じ製法で作ったという鑑真像を拝ませてもらい、開山堂は工事中で、いつもの通りに鑑真さんの御廟にたどり着きました。
特別な空間のはずですが、少しずつ都市化の波は来ていて、周囲の木々の間から普通のおうちが見えました。洗濯物も翻っているようでした。
さっき、開山堂を金網越しに見させてもらった時にも、工事関係者の車両がお堂の背後にいくつか見えました。境内は天平の雰囲気を出そうとしているのだけれど、まわりは都市化の波が来ています。お寺とはいえ、敷地内にお墓はないし、近所に住めたらラッキーだし、資産価値も上がるでしょう。散歩コースの中に唐招提寺・薬師寺があるとしたら、それはもう楽しいはずです。観光客のいない朝方とか、夜とかなら、楽しく散歩もできそうです。都市化の波はものすごいんだろうな。
かくして、お寺の空間だけはそれらしく見えるけれど、実はもうコテコテの都会が見え隠れしている。
鑑真さんをおまつりするところでさえ、木々の向こうは普通の人たちの生活がそこにある。昔は、こんなに集落がそばになかったと思いますが、もうお寺の雰囲気は風前のともしびです。
京都の町中のお寺のように、境内だけでも結界として宗教空間を守ってもらうしかないようです。あたりがすべてお寺のありがたい空間であるなんて、そんな難しいことを求めてはいけなかったんです。
薄暗い中で、ただ一つクチナシの花が咲いて、ほんの少しだけ匂っていました。普通ならあたり一面に匂うはずですが、さすがに鑑真さんがおられるところですから、クチナシも控えめでした。
基壇とそのまわりの白い石、何か書きこまれていて、どうも、誰かの書を彫りこんであるようでした。ひょっとして中国から持ってきた石なのかもしれない。
基壇に向かって右側に石に囲まれた木があって、どうやらこれが「けいか・たまばな」のようでした。
私が見たところ、「昭和五十七年六月四日 趙紫陽」と書いてあるように見えました。
ということは、1982年で、日中国交正常化10周年を記念して当時の首相であった趙紫陽さんが来日した。そして、中国と日本の交流をしてきた人々の中でも、最大の功労者であり、一番苦労したはずの鑑真さんがまつられているところを訪れたのだと思われます。
「六月四日」といえば、天安門事件が起こった日でした。それは、趙紫陽さんが来日してから七年目のことですが、その1989年から2005年の1月に亡くなるまで15年以上軟禁生活を送らされるのです。天安門事件の責任者・張本人として、かなりの罰を負うことになりました。あまりといえばあんまりで、首相を務めた人の政治的な自由は永遠に奪われました。
趙紫陽さんは、あまりにみんなの意見を聞き(日本に来てもわざわざ「昭和」という日本の年号に合わせてしまうんだから、人が良すぎでした!)、人のことを思い、言わずもがなのことを発言し、目立ってしまい、趙紫陽さんがいるところにいろんな人たちの力が集まりそうになったんでしょう。
そうした世の中を変えようという人たちの意見をそのままにしておけば、すぐにでも共産党の支配が終わってしまいますし、党の指導の下で経済大国として国を運営していくという国の方針からは外れていきそうでした。
だから、趙紫陽さんをずっと見張り、人との交流を禁止し、ただ生かしておくだけの立場にさせてしまった。よくぞ死刑にしなかったものだと思うけれど、党の指導の下で、かつて首相まで務めた人を殺害するわけにも行かず、ヘビの生殺しにさせてしまっていた。
すべては共産党政権の延命のためでした。それは今も続いています。今も拘束させられている人はたくさんいるでしょう。そういう政治形態で、自由になったりした時もあったはずですが、緩めたり、縛ったりしながら、人々はその社会の中で息をひそめて生きていくんでしょう。
そりゃ、たまにはだらけ切った日本にやって来て、羽を伸ばしてお買い物したり、おいしいもの食べたりしなくちゃ、やってられないでしょうね。
瓊花(げいか・たまばな)は植えられて40年の歳月が過ぎているはずです。だとしたら、とてもか細いし、二代目か、三代目なんでしょうか。とても四十年の歳月を経た木には見えなかった。
ネットで調べてみても、花はアジサイみたいだけど、しっかり数メートルは伸びて、垂れ下がるように白い花をつけるみたいです。わざわざ鑑真さんの故郷の中国南部の揚州というところの木を持ってきたそうです。
そう、まるで痛めつけられた趙紫陽さんのように、思いを遂げられずに、抑えつけられて何とか生きているような感じになっていました。
いつか、ここのお寺でしっかり花開くニュースが聞けたらいいなぁ。そうしたら、鑑真さんもうれしいし、趙紫陽さんも、わざわざ日本でも心開いてくれているようで、うれしいんだけどな……。