初瀬の山口坐(やまぐちいます)神社をお参りした後、左手には白髭神社(しらひげじんじゃ)というのを見つけました。ここはすぐ社殿が見えていたのでパスをして、右手奥に與喜天満神社(よきてんまじんじゃ)という案内表示を見つけます。
こちらは社殿は見えず、ずっと山の上にありそうだから、そこ経由で長谷寺にも行けるのではないかという勝手な考えで、ここへの階段を1つずつ上がることにしました。
長谷寺は円形劇場のど真ん中の客席の上の方にあります。円形劇場の舞台にあたるところは参道で、参詣客はこの舞台に上がるために周辺から集まってきます。客席の一番上に本堂と観音さんがおられるので、そこにたどりつくまで周辺部の神社さんをまわってみるのが、今回の私の長谷参りでした。これは計画的なのではなくて、毎度の行き当たりばったりです。
見上げるような木々の奥が神社です。そもそも天満神社という名前さえ確認せず、とりあえず遠回りしてしまえというむやみやたらのお参りでした。
初瀬川を渡ってすぐのところに社務所がありました。ふつうならすぐ社殿がありますが、全く姿も見えないので、本殿はかなり遠いのだろう、社務所は参詣客と管理する人に便利なように山の麓に設けられたらしい。見えない山の奥に社殿はあります。でも、奥とはいっても山頂ではないだろうし、すでにアドレナリンが出ていた私は、わりと着実に階段は進めました。
與喜寺跡(よきでらあと)の碑がありました。神社だけが残っていますが、昔は神仏仲良く共存共栄していたのに、ここも明治頃に廃寺になったのかもしれません。それが明治の一方の顔だったのですね。お寺も神社も一緒に存立させる昔っからの日本社会がつづいていたら、今の私たちの生活も少しは変わったのかもしれません。でも、リセットすることを大事にした時代の波に呑まれて、ここのお寺はなくなってしまったようです。
とりあえず、敬意を込めて、ここに生活していたお坊さんたちのことを思いつつ、階段をさらに上り詰めたら、やっと社殿にたどりつけました。お客はいません。後ろからご夫婦づれがやってくるのが見えていたので、なるべく早くお参りして、写真を撮ってしようと思いました。案内版にはご神体の木像があるということでしたが、のこのこ出かけて見られるわけがありません。
でも、わざわざ上ってきた人たちにそのお姿を感じてもらおうというのか、大きな写真幕が掲示してありました。怒ったお顔の天神さんで、こういうお姿はなかなかないそうです。神社でもらった解説には江戸時代の作とあります。
破壊の明治と比べると、江戸時代は本当にいろんなものを作り上げた時代です。戦乱に明け暮れた時代から太平の世となって、サムライたちは文化を作り上げました。荒廃していた地域のお社もちゃんとおまつりして、地域に活性化策を施しました。人々はそんなにあれこれ見て回るというわけではありませんが、とりあえず毎日は一生懸命に働いて、ごくまれに伊勢神宮や金比羅さんなどにお参りに行き、勉強したい若者は大家のいる街へ師を求めて出向いた。そういう個人の力が一斉に花開いた時代であり、地域の信仰も整備されました。
私の好きな東大寺さんだって、江戸幕府にどれくらい助けてもらったことか。彼らのおかげで東大寺ほかのお寺もしっかり今日につづくことができました。江戸時代の研究もしていきたいですね。どれくらいのことができるのかわからないですけど……。
天満神社から長谷寺方面へのだれも歩いていない道を下ります。すると、またもお社を見つけます。素さの雄(すさのお)神社というそうで、ここに長谷寺や天神さまなど、いろんな神様仏様をおまつりするときに、肝心なアマテラスさまを無視する形ではいけないので、バランスをとって弟様のスサノオ様をおまつりすることにしたそうです。その辺のバランス感覚もおもしろいのですが、お社そのものは均衡をとるためのものなので、それほど大きくはなくて、そこにあるいちょうの木だけはやたら大きくて、今年の11月末に来たら、黄葉を楽しめそうな立派な木でした。
こま犬さんが二体ともにかわいらしく、顔のアップを撮りました。
そんなこんなで寄り道して、長谷寺の仁王門にたどりついたのはこちらへ到着して1時間以上かかっていたかもしれません。なかなか楽しい遠回りです。でも、お目当ての長谷寺に着いたのだから、今度は長谷寺モードでしっかりお参りして、平安時代の人々の信仰心を起こさないといけません。
門の中へ入っていきたいと思います。