春よ来い[1976年にKがクラスの同人誌に載せた文章]
♪春よ来い はやく来い 歩きはじめた みいちゃんが……
幼いころの思い出の歌が、正月も終わりに近づいた今日このごろに、ぽっとボクの心に浮かんでは消え、また浮かんでくる。
北国は寒かろう。驚くくらいやせ細った木々が、雪の中からひょっこり顔を出す。ゆううつな浮かぬ顔が似合う、あの北国の空。
中三になる春だった。一路越後へ向かう。四月も初め、ようやく雪が「とけだそうかな」ってつぶやくころ、夜行列車はまどろみの中の、暗い木曾の谷間をくぐって、朝も初めの長野駅に着いた。やはり、そうなのだ。空はわけもなく憂えている。
♪春よ来い はやく来い 歩きはじめた みいちゃんが……
幼いころの思い出の歌が、正月も終わりに近づいた今日このごろに、ぽっとボクの心に浮かんでは消え、また浮かんでくる。
北国は寒かろう。驚くくらいやせ細った木々が、雪の中からひょっこり顔を出す。ゆううつな浮かぬ顔が似合う、あの北国の空。
中三になる春だった。一路越後へ向かう。四月も初め、ようやく雪が「とけだそうかな」ってつぶやくころ、夜行列車はまどろみの中の、暗い木曾の谷間をくぐって、朝も初めの長野駅に着いた。やはり、そうなのだ。空はわけもなく憂えている。
二両編成のディーゼルカーがようやく動き出したときは、車内は通勤客と入学式かもしれない真新しい少年たちとでいっぱいだった。ディーゼルカーの下にはレールがある。これから行こうとするところ、雪原にもレールがある。
車輪が尋ねている。「雪はいっぱいかい」と。千曲川は静かにうねっている。その谷間を、ディーゼルカーは快く、道行く人や掘りゴタツに足をつっこむ人々に、春の近さを告げて走ってゆく。
谷間のところどころの小さな村は、スキーのシーズンも終わりに近いて少し静かになっていた。春を待つ心は、つらくて重い、耐え忍ぶさびしさを、少しでもいやしてくれていた。若い旅人たちは、掘りゴタツのあたたかさに惹かれながらも、足を抜いて出ていった。そしてただ、千曲川はつっぱったような音を響かせている。
十日町という駅に着いたのは、十時をいくらかまわったころだった。お迎えのおじさんが、あったかそうな帽子をかぶって笑っている。そのおじさんに連れられて町はずれの集落に着いた。明日はいよいよスキーだ。今はこれから昼寝。そういって外国の哀調のあるレコードと、旅の疲れとをごっちゃにして寝込むのだった。
翌日のスキーは、初めてだから全然だめだった。もちろん素質もさだかではない。第一、スキーをつけて坂を登ることができない。スキーとは滑るものなのだろうか。それとも難渋して転ぶものなのか。でもとにかく、チクリチクリとスキーを横につっ立てて登っていったのだ。
そして昼食後、さあ、最後のひとすべり、といって滑っていたら、突然すってんころりん、前につんのめった。耳もとで何かつんざくような音がした。……しまった。でも、もう遅い? 立てないのだ。ああ、足だけは折るな! 転びそうになったら、横に体でぶっ倒れろって言われていたのに……。オレもこれで受験はあきらめるか? とも思った(なんと大層なことを考えたものだ)。
みんなが集まって来た。天罰だったのだ。いい気になって勝手に行ったから、こんなことになったのだ。
「おい、立ってみい(立ってみなさい)」とか、いろいろ言われた。泣きそうになった。でも、みんなが集まると、何でもないんだっていうところを見せたくなって、むくっと立ち上がって、山小屋まで自分自身で滑っていった。
後でわかったことは、ただのネンザだった。よかった。翌日、十日町市街の、もと軍医さんで、その人に治療してもらうと、たちどころに治るという、ガマの油みたいな、人の病院(ただの家?)へ行く。荒療治だった、痛がるところを余計に痛めるというような刺激あふれる治療を受けた。
そこを出たら治った気がした。やはり病は気からなのだ。ネンザには梅干しと何かを配合した湿布が一番! と宿のおばさんは言う。
変な言い回しと自己中心的な描写。思い入れたっぷりな書きっぷりで、結局何が言いたいのかわからない文章をKは書いた。そうした独善こそがKの真骨頂だった。それにもっと早く気づけていたら、人はまたちがう人生が送れるのかもしれない。それが気づけないことこそが、若さであり、青春というべきなのだろう。
情緒まかせの文章を、ガリバン刷りのクラス同人誌に載せた。当時は自慢げに発表したのだが、級友にどれくらい伝わったものか。いや、たぶん、だれも見向きもしなかったはずであるし、同人誌というものはそういう存在である。よほど議論がまき起こらないと、だれもわざわざ印刷の悪いガリバン刷りなど見向きもしないのである。
Kが中2まで通っていた塾の仲間と、そこへバイトで英語を教えに来ていた大学生のお兄さんとで、お兄さんの故郷の新潟へスキーに連れて行ってもらった時のことである。周辺事情は一切書かず、自分本位で思い出すことを断片的に取り上げ、友人たちとのやりとりもあったはずなのに、ほとんど省略して書いている。これがKの弱点なのだ。人恋しいのに、その人とのやりとりが上手に描けない。そこに想像力と思いやる気持ちが欠けていて、思い至らなかったようである。
Kは小さい頃より汽車の旅に親しみがあった。何年かごとに、家族で十数時間かけて、四人がけの座席に小さくなって、鹿児島まで帰省の旅をしたものだ。そんな時、家族と一緒にいながら外の風景を見て自分だけの世界へ「トリップ」してしまうクセを身につけていた。
だから、みんなと一緒に移動していても、一人で雪国を旅する自分の絵を作り上げてしまうのである。他にはだれもいなくなってしまう。この時のKの頭の中に流れていた音楽は、たまたま深夜放送で耳にした加藤登紀子の「美しき5月のパリ」だった。フランス語で歌われていた曲を1回聴いただけなのに、わりとスンナリと耳に残って、車窓を流れていく千曲川と、同じ方向に走る車両とが響き合って、雪国・新潟に向かう自分が、まるで革命の兵士になったような気分で、くわしいことは何一つわからないのに、気分だけは立派で、えらそうにしていたのであった。
飯山線で新潟の十日町につくと、3月の終わりなのに見上げるような雪の壁に囲まれた家々があって、塾の先生の親戚の家も雪の壁の中に隠れていた。
「夜行列車で到着したわけだから、ひとまず休憩しなさい」と言われ、みんなで二階に上げてもらい、先生が引っ張り出してきたサイモンとガーファンクルのレコードを聞きながら横になった。「コンドルは飛んでいく」「サウンド・オブ・サイレンス」など、当時は曲名も知らず、S&Gということも知らず、ただ旅の疲れをほぐすような音に聞き惚れて、そのまま寝入ったのだった。