今日、帰りは遅くなりました。1時間以上は遅かったかも……。そして、最近ならライトをつけずに家まで帰ることだってあるのに、ずっとライトをつけて帰ってきました。
いつも通る道なのに、今日はクルマの流れも、空の天気も、道の様子も何だか違っていました。久しぶりの夜の運転だったのかな。
工事はあちらこちらで行われていて、誘導灯の点滅を追いかけて走ったり、田んぼの向こうに市街地のあかりが見えたり、突然跨線橋の下を2両編成の電車が走って行ったり、光と闇の中を、知っている町とはいえ、何だか不確かな感じで走って帰ってきました。
そういう浮遊感を感じた帰宅タイムだったのですね。
電車のあかりが見えたら、もちろん、電車の中に私はいないわけです。でも、もしそこにいたら、どんな顔をして乗ってるんだろうとか、つい思ってしまいます。たぶん、つまらない顔をして、駅には何時に着くの? 今はどこ? お迎えは来るの? メールとかでもしてるでしょうか?
想像してみたら、たぶん現実においても、電車の中の私は、大したことはしていない。本を読んでたらいい方で、寝ている場合だってあるでしょう。それはそれで至福のひと時だけど、クリエイティブではありません。時間の流れの中で、手持無沙汰でオロオロしている。
でも、電車の中だから、というのではなくて、普通の私だって、何かはしているだろうけど、寝たり、本読んだり、たまには誰かと一緒にいたり、たまには誰かとおしゃべりしたり、まあ、ゴハンとかオフロ以外のことは、電車でもできるわけで、そこがどんなところであっても、たいてい私は、私らしいことをしているのだと思われます。
電車の中でも、私は私として存在し、たまたま何時間かそこにはいるけれど、いつもとそんなに変わらないことをしている。
クルマの私は、夜になりかけた空の下をスルスルーっと走って行く電車を見ながら、たまたま私はそこには乗っていないけれど、そこにはいろんな人たちの人生があって、どこかへ向かっているのは確かなのだ、というのを実感しました。
家では、NHKのファミリーヒストリーの名場面集とかで、柳葉敏郎さんのお父さんが、若い頃に最初にもらった奥さんと離別し、その別れてしまった方には娘さんがいたというのをテレビで知ったということになっていました。
柳葉さんは、自分に腹違いの姉さんがいたというのをこの年になって知らされたし、その姉である人も、自分が柳葉敏郎の姉であるというのを番組から知らされ、大いに驚き、少しずつ心を開いていく場面があり、結局何十年も生き別れていた兄弟が、昨年のお父さんの命日で初めて出会うというオチまで見てしまうのですが、とにかく、最初のショックが大きかったのか、柳葉さんは涙がにじんでいたようでした。
何が私たちを泣かせるのか、それはその人にならないと分からないのだけれど、柳葉さんはお父さんの人生を改めて突き付けられて、父はそんな風にして生きてきたのかと、分かっているようで分かっていない父の姿を見られたのが、うれしいやら悲しいやらではなかったのかなと思ってしまった。
それから、お風呂に入って、人生の汽車はいろんな方面に次から次と出ていて、何度も見送り、駅まで先回りしたり、違う方面から電車を待ち伏せしたり、いろんな形で人の電車とすれ違いながら、私は私の電車に乗りながら、どこで降りるのかわからないままに、とりあえず乗っているんだと思いました。
人の電車は、心細そうに走って行くけれど、実はそこでは楽しいことが行われているのかもしれないのです。それは私の知らない世界で、私は自分の電車の中しか見られない。よそがどんなに楽しくても、私は、私のやるようにしかやっていけない。
当たり前のことをグルグル書いてますけど、とにかく、電車に乗りたかった。クルマは、それも人生というか、旅のひとつでもあるんだけど、必死こいて運転しなくてはならなくて、あまり空気を楽しめないのです。
人生の旅なら、電車に乗って、たいしたことはできないけど、そこで自分として乗っていたいです。そんなに必死になってなくて、トイレとメシの心配くらいしかしていないでしょう。