芭蕉さんたちは5月の4日から7日まで仙台に滞在したそうです。今の暦でいうと、6月の20日から4日間ということになりますか。
ああ、とうとう芭蕉さんにまた追い抜かれてしまった。秋田県の象潟に行ったら、ネムの花が咲いてたということだから、1ヶ月は遅いはずだから、急いだら間に合うかもしれないし、今年こそ、平泉や最上川を越えて、象潟まで行きたいけど、また追い抜かれて追いつけなくなるパターンのような気がします。
私って、移り気なんですよね。ずっとコツコツ続ける根気が足りなくて、すぐ他のところへ行ってしまう。そして、何もかも置いてけぼりを食わせられる。まあ、自業自得ですけど、今年こそ、芭蕉さんたちと旅したいです。
芭蕉さんは9月の5日に大垣ということだから、まだ4か月あるから、せいぜい追いかけてみます。
というんで、仙台をいよいよ旅立つんじゃないかな。松島をめざしていますよ。俳句は作れなかったということになってますけど、作品そのものはあるみたいです。まあ、いろんな価値観というか、ダンディズムというか、あるから、まあ、せいぜいフォローしていきたいです。
かの画図(がと)にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)あり。今も年〃(としどし)十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととの)へて国守に献ずと云へり。
仙台の歌枕をあれこれ調べて、案内してくれた北野屋加右衛門(きたのやは屋号で、苗字はなんでしょう? 画工とあるけど、どんな仕事をした人なのやら? とにかく、いろいろと世話をしてくれたかえもんさんです!)さんが、自らが案内できないこれから先は、案内図みたいなのを描いてくれていたようです。
かえもんの絵図を頼りにして道を尋ねて行ったところ、おくの細道という道筋の、山のすぐそばのところに、十符(とふ)の菅(すげ)が生えていた。
今でも毎年、十符の菅菰(すがごも)を作りそろえて、藩主の伊達の殿様に献上しているということでした。
さて、十符の菅というのは、網目が十筋あって、細い菅でつくったそうで、今でも仙台の東部の岩切村というところで作っているのかどうか、というところです。
仙台から、東をめざしています。塩釜とか、仙台港とか、海側で、その少し北東が松島になったかな。何度か通ったことがあるんですけど、イマイチ印象がはっきりしないです。
それで、この「十符(とふ)」が少し気になって、あれこれ見てみたら、今の利府町(りふちょう)が、「とおのふ」が「としのふ」と書かれ、「りふ」と読むようになったという地名の語源の一つにつながるというのも見つけました。
確かに、サッカーで強かったような気がする利府高校というのを見つけて、何と読むのかどうか、読めなかった気がします。はたして「十符」が「利府」になったのか、それとも、古代王朝にとって大事な都市・多賀城が「利府」だったのか、いい加減な私にはわかりません。
でも、おくの細道の時代、江戸前半には「利府」はなかったんでしょう。何か語源はある気がするんだけど、今度仙台からフェリーに乗ることがあったら、ふらふら調べることも可能ですか。
東北地方の日本海側、砂浜のところもあるけれど、ごつごつした岩山が海まで迫っているところが多いのに比べて、太平洋側のだだっ広いこと、これは日本列島の成り立ちに関係があるというのは最近知ったことだけれど、あまりにまっすぐで、少し高速を走ってると運転する気力がなくなって来る時もありましたね。
ものすごく早く走り抜ける人たちはたくさんいて、みんなチンタラしていたくないんだろうけど、私には大変です。やはり、芭蕉さんみたいに歩いたほうがいいはずです。
でも、残念ながら、芭蕉さんみたいにスタコラ歩く力もなくて、クルマもしんどいし、歩くのも疲れるし、どうしたらいいのか、ヨボヨボのオッサンの旅の仕方をもう一度練り直す必要があります。
電車に乗れたらいいけど、今は無理だしな。いや、コロナが終わったら、注射をうったら、電車にも乗りたいな。もちろん、東京は避けていきますけどね。