仁和寺シリーズの53段を取り上げてみます。
これも仁和寺の法師、童(わらわ)の法師にならむとする名残(なごり)とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて興(きょう)に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなえ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻を押し平(ひら)めて、顔をさし入れて舞ひ出(い)でたるに、満座(まんざ)興(きょう)に入ること限りなし。
前回につづいてまたも仁和寺の法師の話です。お寺の中で雑用の係をしていた少年が、いよいよお坊さんになるということで、そのお祝いをしようと、みんなが集まってワイワイとやらかしておりました。
ついつい興に乗ったある者が、そばにあった鼎を頭に乗せて、目のあたりくらいでとどまっていたのを、無理矢理に鼻をひしゃげて、顔を全部中に突っ込ませて、踊っていると、まわりの者はおかしいやら、バカらしいやらで大喜びをしておりました。
しばしかなでてのち、抜かむとするに、おほかた抜かれず。
しばらく音楽に合わせて騒いだ後、さて鼎から頭を抜こうとするのですが、まったく抜ける気配はありませんでした。
酒宴(しゅえん)ことさめて、いかがはせむと惑(まど)ひけり。
宴会はしらけたものになり、人々はどうしたらいいのかと戸惑うばかりです。
とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫(は)れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らむとすれど、たやすく割れず。
何度も抜こうとしたせいで首のまわりは真っ赤にはれてきました。こすれたところは傷になり血もにじむ始末です。呼吸も苦しいので、鼎を割ろうとしますが、金属製ではあるので、簡単には鼎は割れません。
響きて堪(た)へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり、率(い)て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。
中に入っている人は、金属を打ち砕こうとする音が響いて、もうどうにもなりません。なすすべもなく、鼎の三本足のところに帷子をかぶせて、その手を引き、杖をつかせながら町のお医者さんのところへ連れて行くことになりましたが、その道すがら、人々が異様な目で見ていくのはもうどうしようもありません。
医師(くすし)のもとにさし入りて、向かひゐたりけむありさま、さこそ異様(ことよう)なりけめ。
お医者さんの前に出て、向き合った姿というのは、それは不思議な様子だったことでしょう。
ものを言ふも、くぐもり声に響きて聞こえず。
何かしゃべっても、鼎の中に声がこもり、内部で反響するので、何を言っているのか聞き取ることもできませんでした。
「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」
お医者さんが、「このようなことは、書物でも見たことはありませんし、口伝えに伝わっている教えもありません。」
と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらむともおぼえず。
そう医者が言うので、ふたたび仁和寺にもどり、親しき人々、老いた母、関係者は枕元に集まり、みんなが泣き悲しんでも、当の本人が聞いているようには見えませんでした。
かかるほどに、ある者の言ふやう、
「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらむ。ただ力を立てて引きたまへ。」
とうとうある人が決意して言いました。
「たとえ耳や鼻がちぎれてしまったとしても、命だけはどうしてなくなるということはないでしょう(なくなるものですか!)。もうみんなで力をふりしぼり鼎を引っ張りましょう。」
とて、藁(わら)のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。
そう決めた後に、鼎のふちのところに細長いわらを差し込み、首を抜きやすいようにしたあとは、鼎の足をそれぞれで手分けして持ち、首がちぎれんばかりに引っ張りますと、耳や鼻は傷付きはしたけれども、とうとう頭は中から現れました。
からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
死にそうなところからどうにか助かりましたが、しばらくは寝込んでしまったということでした。
画像のアップはできないけれど、とりあえず研究テーマである「徒然草」を見てみます。
お寺のお稚児さんが、いよいよ卒業で、お坊さんへの道に入ることになった。それはもう、みんなから愛されていたお稚児さんではあったので、坊さんたちは、悲壮な覚悟で宴会をしたことでしょう。
この宴会では、お酒が出たのでしょうね。すると、これはどぶろくさんかなあ。そういうお酒でみんなそれなりに酔えたんでしょうね。
あれ、仁和寺は天台宗でしたっけ、調べないとわからないけど、ここのお坊さんたちはお酒を飲んでもよかったんだろうか。それとも、お酒を飲まなきゃいけないくらいに、みんな悲しかったんだろうか。
このあたりは、少しわからないですね。兼好さんとしては、特に僧の飲酒についてのコメントもないので、中世では特に問題はなかったのかもしれない。
そして、お酒を飲んだ。悪ふざけをする大バカ者がいて、鼎をかぶったまま抜けなくなった。そうした人の愚かさを伝える物語にはなっているけれど、わりとここに出てくる人々の思いやりというのか、団結力というのは、なかなか統制がとれている気がします。
もう全力で、医師に見せたり、みんなで必死になって取り外したり、一丸となって立ち向かう姿勢は、ここのお寺の良さなのではないか、こういう人たちが集まったお寺なのではないか、そういう気にさせられます。
おバカなこともするけれど、そういうおバカを見殺しにせず、全員で解決しようとする意志力があると思います。
確かに、鼎が外れた後、大バカ者は、寝込んだと書いてはいるけれど、それをみんなで介抱して、面倒を見てあげたのですよ、というのが言外で伝わってきます。
そうしたあたたかな空間がそこにあるような気がするのです。
だから、こんなおバカな話も、なんとなくホッコリする気持ちの穏やかさが流れているのだと思います。
★ 仁和寺は真言宗でした。ということは、お坊さんは結婚もしちゃダメだし、お酒も飲んじゃダメじゃないのかな。
これは破戒僧なのでしょうか。たぶん、そうじゃなくて普通のお坊さんだと思います。ということは、昔はそんなにお酒に関してはあれこれ言わなかったということなのかな。
とにかく、仁和寺のお坊さんたちの団結力の話ですから、そのためにはお酒も許されてもいい、ということなのかな。(2018.2.8)