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インディアンの子育ての理屈を考えてみる

2013-12-04 06:48:36 | 日々の疑問
ヘヤーインディアンの子育て

面白い記事を見つけたので、紹介がてら考えてみたいと思う。

このヘヤーインディアンには、「教える」「教わる(教えられる)」という言葉がない。
言葉がないということは、そういう概念がないということだ。

彼らは「人に出来ること」は「自分でも必ず出来る」という意識が子供の頃からあるのだそうだ。
「教える」の根本には、子供自身が「それは出来ない」という考えの上に「教える」があり、子供にも「自分には出来ない」から初めから「教わる(教えられる)」という意識がある。
子供ころから物事を「出来ないかもしれない」とか「自分には出来ない」という意識で見ない環境があるのだろう。

座学には教えられなければ分からない。そういう部分が入り込む余地が多いようにも思えるが、実は「座学以外」で行う見様見真似の態度が「座学」に臨む態度に効くのかもしれない。

最近の教育そのものにどこまでもついていけている訳ではないが、もしかしたら「教えない」と「分からない」という連鎖が生まれていやしないか?と思うこともある。

あと、思うのは「綺麗に」「上手に」「格好よく」出来ないことは、「出来ない」に分類してしまう意識もありそうだ。
初めから完璧な訳がないのだが、上手く出来ないことは「教わらない」と「綺麗に」は「出来ない」という態度そのものを生み出しているかも知れない。

そこには「育てる」の中に確実にそういう素養(教えられずとも自ら考えてやってみる)を生む機会を増やしていく必要がありそうだ。
公園で見様見真似の危なっかしいことをする我が子に対して、「どんどんやれ」という態度でいくか、「親として見ていて危ないから」という態度で遠ざけるのか辺りが分水嶺だろうか?

そしてこのヘヤーインディアンの意識の中に、「はたらく」という意識と「遊ぶ」「休む」の区分ががっちりあって、「育てる」は「遊ぶ」「休む」に分類され、そういう意識の下に行われているため、「育てている」方が「遊ばせてもらっている」「活力をもらっている」という心境で行われているというので、やはり自分の考えている「子育て」=「単純な義務」「苦労を伴う」というところとは根本からして違う。



自立という言葉が、よく叫ばれるが現実に子供自身が「自分自身で考えて行動する」機会の創出には、それを生むための親側の意識にこそ何かの改革が求められているのかもしれない。

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