色々な命題を学生に答えさせて、「それに対する反論は?君」と指名していくその講義の流れは、どこまでもサンデル教授の掌の内なのだろう?
どういう反応が主に返ってきやすいかをシュミレートして講義が運営されているようで、とても分かり易くなっている。でも学生達の事前のブログコメント投稿(?)などでその起き得る議論もほぼシュミレーションが効くのだろう。だからこそみんなで作り上げた授業だね。よく分かる。
というのは大嘘で、下巻に入ると若干講義内容についていくのが厳しくなっていきます。トホホ。
リベラリズム(自由主義)、コミュニタリアニズム(共同体主義)、リバタニアニズム(完全自由主義)、アリストテレスの説く最高のフルートは最高のフルート奏者が持つべきであるというテロス(目的・目標)を至上命題にして決められていくという思想体系を少し解きながら(ほどきながら)、読む必要が出てくる。敢えて現代に生み出された思想から古代で生まれた哲学に飛ぶこと、それ自体の流れも教授は意図している。主義とは少しバランスを欠いた思考形態であろうし、歪なもの。だから心に引っかかりが生まれ、本来求めていたものに暗い影を落とす。だからこそ思考を始めたその時に一番大切にしていたものをもう一回目の前に持ってきているのかも知れない。
そういう風に少しでも理解を深めるために自分がこの本の中(下巻に入ってから)で得た読み方がある。
それは、各レクチャーの後に小林正弥教授による解説がついているのだが、これを先に読んでしまってから講義を読むという手法を取ると、頭に入ってきやすくなった。
「ここでは今までのカント主張を「もし友達を殺しにきた殺人犯に(嘘をつかずに)「友達がいる」というべきか?」「クリントン大統領はモニカルインスキーとの関係を「性的な関係を持っていない」という詭弁・嘘(セックスをしたということと性的な関係を持つということは違うという主張、もちろん詭弁です。セックスはしていないと言ったのではなくて性的な関係は持っていないという主張をしたという出鱈目みたいな話)という命題を元に締めくくっています。道徳的な観点と純粋な理性とは別に語られるべき・・・・。(ちょっと適当に書いています)というようなまずは解説を読んでから講義を聴く(読む)と、どうしてこういう話を切り出してきたのか?という辺りがぼんやりとですが見えてきます。
考えに「普遍的で絶対で必ず結論がある形で」議論が終了してしまいおおせるような理屈はやはりないように思えてくるのが一つの味噌です。
どの考え方にも特徴があるのですが、サンデル教授はどうもある自分の主張(ロールズの正義論に異を唱えたところから始まるコミュニタリアニズム)への理論形成の過程を見せているというようなことが分かってきます。その論でさえ、現代という、その時点か局面においてのみ有効か表明した時点で崩れていってしまうものという自覚も持っているのです。
だからもちろん、永遠に合意点の訪れない議論なのですが、今の世界を覆い、構成している考え方の根差している思考の理屈を対立を加えつつ見せていこうとしている様が見えてきます。
連日、対応に次ぐ対応で鍛えられもしつつ、今更ながらでも覚えていかなきゃいけないことも吸収しながら、という日々を送っていますが、行き帰りと昼を使ってあと80ページというところまで読み進めてきました。※現時点では東大の講義録を除いて読み終えて加筆しています。
読み切って完全に理解し得たか?という状態が来ているとも思えませんが、ここまでで出てきた命題を書きつつ、最後に読んで合点したというか、「こう思えばいいんだよな」という感想をここに記して、一旦読後感想文として公開します。
これから読まれる方への参考になれば、読み終えた方とのいい交信になることを願って…。
①「嘘はいけない」というカント、「友達を殺しに来た殺人犯に友達はいると正直にいうべきか?」言い逃れするべきか?
②白人であることを理由に入試で落とされてしまった人の主張
③最高のフルートは誰が持つべき?(最高の技術を持ったフルート奏者が持つべき)能力主義への懐疑
④足に障害があるため、ゴルフツアーをカートを用いて出場したいという人と公平性を保つためにカートの使用は認めない協会への最高裁の判決。歩くはゴルフの要素に含まれる?含まれない?
※そもそもゴルフとはスポーツなのか?ゲームなのか?
⑤愛国心とは一体何なのか?
⑥コミュニティでは何が重い?ルームメイト?家族?社会?人類?
⑦格差社会ってあり?なし?
⑧南北戦争で南部を覆っていたコミュニティの伝統と理屈。君はどのコミュニティの価値観を大事にする?
⑨同性結婚は認められる?結婚の目的とは生殖だと言い切れるか?国や政府は結婚の意義を決めることが出来るのか?不妊の夫婦は?同性結婚について最高裁が悩み、逡巡を繰り返した結論とは。
⑩善を求める生を検討する。
どうも南北戦争での(すいません、アメリカの南北戦争を良くは理解していないのですが…)奴隷を解放するという使命を帯び、地続きな現状を否定し、理想を求めるという考え方を求める集団が形成された事実を大きく肯定した集団思想形成を賛辞しているのかもしれません。マイケル・サンデルは。
現状における事情を乗り越え、ポピュリズムとは違う理想を求める意思を統一できた社会を理想としているのではないか?と思えてきました。
信仰も違えば、信念も違う、そのお互いがお互いを確実には理解することが不可能と思われる現代で、よりお互いを知ろうという努力を怠らないようにしようではないか?という提案に溢れているような気にはなりました。
以前、
十六の話という文庫の中の井筒俊彦氏と司馬遼太郎氏の対談でも、それ(希求される大きな融合)を求めるために上位の言語(メタランゲージ)を必要とするのではないか?と考える、その思考過程と大きく合致していると思える内容に触れたような気もしたのです。
正義、ジャスティス。各々が違う価値観で暮らす世の中に、個人の尊重はどこまでもそれとしてあるのだけれど、社会の求める次元を押し上げる理想的な集団思考形成。政治哲学。
講義の最初に書かれていた言葉をサンデルはもう一度最後の最後に放ちます。
「この講義を経ることで今まで理解していたと思っていたものを見失うかも知れない」と。「慣れ親しんだものが様々な問いの中で見慣れたものでなくなると二度と同じものには見えなくなる」という警告を思い出させ、カントがいつまでも懐疑主義を用いて思考を昂らせていくことこそ本懐だとし、ここではそれが成し得られたのだから、この講義は成功だ。と締めくくります。
もう少し、マイケルサンデルの著作を読み散らかしてみたくなりました。
それは問いかけて応じることで、同じコミュニティの中にいるもの同志が共有すること自体を一番の想いにしたいという信念が自分にもあるからです。ある意味大きくこの講義方法に共感を覚えたのです。
問いを続けることがなければ、思考は開始しないし発展もしないとも言えます。それはその通りです。
そしてそれは一旦不安定な状態になる。問いとは全てそういう形であるべきだと自分も思うのです。それは自分自身への問いもそうですし、共同体の中でも同じです。
共同体では浅い部分で、納得とは程遠い注文を出し、受け、を続けているうちに結びつきはとても弱いものになっていきます。
予定調和(ある意味結論ありき)ほど、反吐の出るものはありません。(納得できないような、でも納得「させたれた」感じ。ある意味納得できていないのだから意思統一のはるか手前。この後待っているのは言った、言われてない(本当は腹に落ちていない)の不毛な状況)
逆に単なる想いの押しつけでも困るわけです。(納得がまるでなく、独り善がりな感じ)
そこにあるからそれをするべきだという独り合点も唾棄すべきです。例えば前年に行った行事は全て今年もやるべきだという考えとかですね。(集団での思考形成が「考えること自体が面倒臭い」を前提に行われている感じ)
事情が理念を越えられないという事態は破滅に向かう象徴のようなものだとも思うからです。「善き」ものというものと自分が求めているものは、その信念の発端が大きく違うのかも知れませんが…。
ただ、誤解をされないように書き添えるのであれば、闘いたい訳ではなく、強く納得したいという衝動に駆られたというところでしょうか?共同体の本懐は同じ価値観で結ばれていること、それ自体が強く必要なわけです。そこにはプロセスが欠かせないだけ。そうでしょ?
その手法がこの講義には溢れているように感じられました。
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