萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

スタ丼 溝の口店9 月30日12:0 0オープン

2011-09-30 08:46:15 | 推薦します!
久しぶりのモブログ投稿です。
本日、あのスタ丼 溝の口店がオープンするそうです。
今日と明日、1,000杯まで1杯100円で提供してくれるそうです。

お近くをお通りの際は是非お立ち寄り下さい。
そうですね。。。。。国分寺店で初めて大盛を見たときは度胆を抜かれました。かなり。。。。
もし料理に性別があるとしたら、スタ丼は間違いなく男の食べ物です。ですが、本来料理に男も女もありません!
そこの肉食系女子!いかがですか?(意味違うかも)
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2011 夏旅行 スピンオフ企画

2011-09-30 05:26:24 | お出かけの記録
この前の夏に巡った山梨・長野・岐阜・滋賀・京都の旅で、写真に収めたいくつかの食事やらを紹介します。


出発してほどなく、御殿場のコンビニで朝食を摂りました。ここから先を考えてまず飲み物の確保とトイレです。

お昼は写真を撮らなかったのですが、街道沿いのラーメン屋さん。味噌ラーメンを食べています。実はこれを思い出せずにいた。なんとなく鼓川温泉で麦茶だけ飲んで終わりにしたような気がしていた。

石和温泉では折り畳みできるクーラーバックを買い込み、氷とビールを購入しました。



その日の晩は松本に泊まりました。
レトロ感覚な(昭和の看板を使った)お店で、焼鳥を頼みました。レバーだけは必ずタレで最初に頼みます。いつの頃からだか塩ばかりを頼むように変ってしまいましたが。。。。レバーだけはタレで頼み、タレが美味しければタレで頼むものを考えることにしています。


上高地で食べたお蕎麦と胡桃の入ったおにぎりを食べました。高校生みたいな子達が営業していて、私の後に残った一つの胡桃のおにぎりが売れて完売になると、従業員達がそのおにぎりを作った(企画もした?)女の子にそのことを伝えて全員でハイタッチを交わしていました。


奥飛騨の道の駅で買ったお団子です。一口齧ってから写真撮るのを思い出すいつもの癖が。。。。



次がですね・・・高山の手前で立ち寄ったドライブイン(名前は失念)で食べた餃子ラーメンです。
当店オススメなる文字があったので、躊躇わずに一番高いと思われるこのラーメンを頼みましたが、注文時に「餃子が中に入ったラーメンですけど構いませんですか?」と確認された時はもう時既に遅しでした。だって断れるわけがないじゃないですか?構いませんか?とか大丈夫ですか?と聞かれたら、今度は「やっぱしもう少し考えさせてもらいます」ということにしようと思います。

いや水餃子とラーメンなんで、まぁ喰えないわけではありませんが、ワンタンが何故偉大なのか良く分かりました。

麺は少し縮れていて、歯応えというか食感は良かったです。これが高山ラーメンなんですね!

トッピングはワンタンがいいでしょう。ワンタンラーメンの美味しいお店は揚州商人と田丸です。



一度は野宿を考えた高山の喫茶店です。


高山はコンビニはあるのですが、ファーストフードとファミレスが一切ありませんでした。ド・トール、スタバもない。

覚悟を決めて飲みに行ってしまえば良かったかも。と今では少しだけ後悔しています。
コンビニで大関のような形のお酒(飛騨のどぶ、さるぼぼ)を2つとおつまみを買って野宿体制は敷いたんですけど、余りの観光地、観光客の数に少しビビリました。


岐阜に向かう途中でゆったり館という温泉に浸かったのですが、そこでお蕎麦の食べ放題、わんことは違って蒸篭で出して積み上げるパターンに挑戦し損ないました。
コインランドリーをもつドライブインで掛蕎麦250円+天ぷら50円+五平餅160円を食べています。

岐阜では家族からの薦めもあり、一旦野宿を中止。ビジネスホテルを取ったことで飲みに出かけることにしました。
緑屋さんという兄妹(?)でやっている焼き鳥屋さんで一人呑みです。

ここでは、宮崎の焼酎、加江田というお酒が気に入りました。ANAの国際線に採用されている焼酎だということで、こちらで酒屋さんを探してもまだ見付けることに成功していません。通販ならありそうですけどね。

その後韓国料理屋さんで食べた真ラーメン(しんラーメン)です。

これが韓国本場の味とか書かれていたので頼んだのですが、完璧に辛ラーメン(笑)でした。具材は幾分投入されていましたが。。。。


実はここで私はメモを落としてしまいました。

翌日から安土、京都に向かうのですが、記憶が飛んでいる。写真に残るものを紹介しましょう。


安土城考古博物館という場所に喫茶店があって、
「幻のコーヒー、インドモンスーン」とか書いてあったので頼みました。アイスで頼んだのがいけなかったのかもしれません。大きな味の特徴は見付からなかったのですが、妙に飲み易かったということはあったと思います。
今度豆を探してみます。


夜になる前に雨に降られたのですが、源義経が元服した場所と書かれた竜王かがみの里の道の駅で、安土のスーパーで特売していたおかずの数々を雨宿りがてら車中で食べた時に写した写真です。ソースはイカリのソースを100円で買いました。今家でも使っています。
大阪出身の同僚に聞くと、イカリは大阪ではメジャーだそうです。

そして京都です。一旦亀岡城まで行って、
折り返してきて本能寺の傍に車を停めて、歩き回ったところ、お団子屋さんでお団子を購入。

探し回って発見した鱧の串焼きをゲット

ついでに鱧の天ぷらを立ち食いしました。


生麩やら練り物など色々と美味しそうなものが並ぶ界隈、錦。



ひやしあめを飲んできました。


あとは冷たく冷やされた抹茶。


お昼の先斗町。雪はここにも降るのでしょうか?

富士の高嶺に降る雪も~♪京都先斗町に降る雪も~♪雪に変わりがあるじゃなし~♪解けて流れりゃ皆同じ。。。

富士の麓からここまで来たことに想いが募ります。(笑)


この後は城南宮にいき、比叡山延暦寺に行って、帰るのですが、近江でなんだかちゃんぽんが有名?なんだとか?名物と書かれていたので、寄ってみました。
写真はどこかにあるかもしれませんが。。。少し太めの麺は噛み応えがあるもんだなぁと感じた次第です。

この後、探していたメモを受け取りに岐阜に戻ってもう一泊しようかと考えていたんですけど、メモを拾ってくれたお店が休みだったため、その通りの人にお金と住所を託して、帰還の途に着いたのでした。

先にも書きましたが、焼鳥や焼きとんですけど、やはりレバーはタレを頼みます。
以前はいつもタレで食べていました。最近は皆さん塩ですよね。。。私も基本がそうなりました。感化されやすいんで。。。。
でも、この旅以降、タレでまずレバーを頼み、タレが美味しければタレに合いそうな串を頼むように心掛けています。
モモなどは塩ですけど、タレに合う串をレバー以外にも探そうと今考えています。タレ縛りで今度全品タレでやってみようかな。

タレ焼鳥大会。どうでしょう。
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新入社員のときのお昼ご飯列伝

2011-09-24 05:33:27 | 懐かしい思い出
新入社員からある境遇になるまで、お昼を大勢で一緒に食べるという習慣が余り身に付かなかったんです、私。
昼になると、買い物に出かけ、スーパーからお弁当を選び、本屋に寄って立ち読み、CD屋さんに入って物色。居室に戻ってご飯をさっさと平らげ、将棋に興じる同僚の観戦などなど。。。。
時間をふんだんに利用して、様々な遊びをしていたので、あまり同期と一緒にご飯を食べに行くというのが、入社して10年くらいまでは習慣になりませんでした。

その際、一人ですから、お弁当を持っていくこともしましたし、スーパーで食材を買ってきて自作することもありましたし、もちろん一人で外食に出かけることもしばしば。その中で今でも思い出に残っているお昼ご飯を列挙したいと思います。


①自作お弁当編
・炊き込みご飯:一番初めに自作のお弁当を思いついたのは、炊き込みご飯でした。『三食とも炊き込みご飯でも構わないや』とか思いついた私は、毎晩炊き込みご飯を自炊していました。米は標準米を購入していて、当時はまだ銘柄米が余り出回っていなかったと思います。
※よ~く考えたら自作のお弁当の持参は多分これだけかも。しかも数日間続け、「炊き込みご飯なんかもう見たくない」というぐらいまで作り倒しました。


②食材購入→自作
・新入社員のときに、スーパーに買い物に行き、マフィンを見た瞬間。ハムマフィンを作るかと思い立ち、マフィン、レタス、ハムを購入して、給湯室の脇で果物ナイフを借りて作った思い出があります。
まぁ完全に変人扱いですな。でも夕飯食べに行く時間を惜しんだ当時の課長から、「夕飯にあれ作ってくれ。原価計算して請求してくれ」と言われて、課員全員分だか、希望者分だかのハムマフィンを作った記憶が一度だけあります。
ただ、原価計算に自分の加工賃を乗せ忘れ、完全に材料費だけの請求にしてしまったのは間違いだなと今では後悔しています。

・うなぎなんて、うなぎのタレと山椒だけで何杯でも飯が食える!と思い立ち、蒲焼のたれと山椒を買い求め、吉野家に「大盛りご飯」のお持ち帰りを注文して、立て続けに数日間これをお昼ご飯にしたことがあります。実につらいご飯でした。タレだけで食えるなんて豪語してゴメン!タレだけでなんてとても喰えませんでした。いくら山椒で気分を盛り上げても最後は無理に食べている感じでした。


③お弁当買出し編
・一番この率が高く、目黒の権の助坂界隈ではお弁当戦争のような状態になっていた時期もありました。
確か、100円引きにするという10枚綴りの割引券を乱造して配りまくり、のり弁当が230円くらいで買えるという暴挙に出た当時の某有名お弁当店(今商標変更)が、他のお弁当屋さんを一掃してしまいました。
もちろん寡占状態が完成したら、割引券など配ることもなくなり、あの長蛇の列は消えてしまいました。

④カップヌードル編
・安くあがるのに身体が完全にはこの商品をどこかで認めていないということが分かります。この商品はもう少しだけヘルシーに作る必要がありそうです。おそらく塩分ですね。緊急避難的な食事ではあります。カロリーはLightの出現で達成できてそうですけど。。。

⑤外食編
・勤務先が当時目黒だったので、らーめん玉川(玉ちゃんラーメンという注文を、タマちゃん騒動後に嬉しそうに受けていた店員さんが懐かしい。栃木に移転と聞きました)、田丸、目黒二郎(猛ダッシュ→列に加わる→固め注文で先に出してもらい、速攻で食べて猛ダッシュ帰社)、大崎凛(現Outsiders)訪問などもありましたね。。。。お昼に山手線が止まったりしないで~!とこのときばかりは思っていました。


⑥お昼に昼食を後回しにしてまでも外出してしまう作戦
お昼ごはんをブッチしてでも外出して買ってしまいたいと思うもの。一つは本、これは代々木で降りて新宿新南口方面にある紀伊國屋さんに買いに行くこともありました。代々木から行くほうが駅を出るのに早いです。
もう一つはある映像商品を下北沢のdisk UNIONまで猛ダッシュで買い物に行ったこともあります。帰りの井の頭線→渋谷で山手線内回りに階段であがって入場するのがきつかった思い出があります。代々木では牛丼太郎というお店によることがありました。ここでは(多分)普通に一人の人が並盛りを2杯という特盛り以上の過激な注文をしている人を何人もみました。

⑦簡易食材で済ますこと。
川越に来て、食パンを買い、ポットで沸騰→保温の中に突っ込んでレトルトカレー+食パンで済ますこともやりましたし、冷奴だけとかところてん食い放題とかもやりました。
一つの丼(どんぶり)を買ったことから、やっていたのですが、最近はそれもしなくなりましたね。。。川崎に異動したらそこにはレンジが置いてあったので、レンジでチンするボンカレーをカレーにかけて食べるからと丸めただけで持ち込んだ握り飯を丼に展開してカレーを作ることもありますがそうそう長続きしません。
最近では、「温めずにおいしいカレー」という、基本非常食も意識したレトルトが出たのをご存知でしょうか?それを本当に温めずに食べている人を見かけました。
感想を聞くのを忘れましたが、怒ってもいないようなので、温めずにもある程度満足して食べれたのだと思います。



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香港旅行記5 最終章 1998年11月

2011-09-20 05:04:17 | 懐かしい思い出
さぁガイドブックの件とともに思い出しながら書き始めた13年も前の香港旅行記、これにて最終章になります。今を生きているはずなのに過去をたっぷり引きずっている。。。
人間誰しもそんなものだと思いますが、改めて『過去のドレイだ、生きた化石だ』と綴ったTOMOVSKYの歌詞が胸を打つのでございます。。。。


『センターは中心』

香港というか広東語というか(中国語というか)には、全ての表記を漢字にし尽くすことが常である。日本語のカタカナは曖昧に英語のものを混在させるのに便利だが、改めて漢字ばかりの表記を見ていて気付いたことがあった。
中心、これは英語のcenterを指している。世界貿易センターは世界貿易中心と書かれ、商業中心と書かれれば、商業センターねと。。。あぁなるほどと思うことがあった。
日本語の意味でセンターは、なんとなく「大きな建物」をイメージさせる。ショッピングセンターとかいう使い方だが、中心と書かれるとそういうことではないのかと気付かされるのだ。ここは中心なんですよ、みんながその件で集うところなんですよという、”象徴なのだ”という主張があって、例えば中央卸売センターという名前では、中央とセンターの意味が被っていて実はおかしいのではないかと思った次第だ。中心というのは当て字なのかもしれないがそう書かれていることで、本質を言い当てているのではないかと勘繰った。

その世界貿易中心の地下では様々な食材を扱うスーパーがあった。
セシリアさんがニュージーランドで見た様々な味の種類がある「出前一丁」がここでも多種売っていた。蝦味のものを複数購入し実はこれも抽選で渡したお土産8種の中に忍ばせていた。
「香港のお土産が出前一丁かい!」と当った友達は笑ってもらってくれた。そうだよ、あらよ出前一丁~♪


『発熱』

毎日を楽しく過ごしてはいたものの、少しハイペースな気もしていた。
あるときcat streetの帰りにレストランにより、食事の後に、『檸檬珈琲』なるものを頼んだら、予想外にアイスではなくてホットだったこともあり、飲み干すのが辛かったことがあったのだが、(まずいというより酸っぱいコーヒーになってしまっているだけな感じ。でも結局は味が融合せずに馴染んでいないものをまずいと感じるのかも?)そんなものを呑んだ直後に体に異変を感じた。
当時は常用していたバファリンを飲み、鎮静を待った。一晩で治ったがその後は港でポケっと過ごす時間とかも多くなった。港で対岸を眺めて過ごすことも。。。路面電車で終点まで行くとそこで腰掛けられる場所を探しては誰も来ないところでぼんやりと過ごすことも多くあった。

ハッピーバレー競馬場、開催されていない競馬場の周辺でも、街の一隅に腰掛けて、誰も来ない競馬場を眺めたりもした。大きな芝生を持つその競馬場の眺めは所狭しのこの国の中では、なんとなしに贅沢な印象があった。ここに来たのは初乗りで決ったお金を払えばどこまでも乗っていい路面電車(トラム)の終着駅だったからである。
当時はいつまでもポケッとしていられる最強のアイテム、煙草を常用していたのも大きかったかもと思う。腰掛けていつまでも誰もいない競馬場の周辺の景色を眺めていた。

ポケッと過ごすくらいなら澳門にでも渡ればと思われるだろう。。。でも私は澳門に渡ることはなかった。私は博打にとても縁がないと思ったのも一つの要因だ。また香港に宿を取っているのに澳門でも泊まろうと思った沢木耕太郎のことが頭に残っていて、高速船を使えばすぐなのかも知れないが、香港に宿があるのに少し離れた澳門まで行く勇気がなかったというか、またホテルを探すのかという面倒臭さというか、ある程度のお金さえ持ち合わせていればなんとでもなるのだろうが、この辺が私のビビリの限界だろう。。。やはりどこかまた別の世界を飲み込むには勇気が必要だったかも知れない。


『封印したビクトリア・ピーク』

私はあらかたの香港の観光地に足を運んだつもりだったが、一つだけ行かない場所を設けた。全て行き尽くしたなんて、ある意味絶対それはあろうはずがないが、決定的に有名な場所で一つ、ビクトリアピークという観光名所には登らないことにした。
香港島の中腹にあるケーブルカーで頂上に登って夜景を見たりするのが有名な観光スポットだ。そこからの景色は下界からそのケーブルカーを見る度に景色を想像することはあっても、実際の光景は知らないようにと決して登らないことにした。
またいつか香港に再訪することの楽しみにと封印することにしたのだ。


『普通の街もある』

様々な乗物に乗ったが、いかにも居住区なのだな?と思える場所も存在する。熱気を帯びている場所ばかりに人だかりするので、どこもかしこもお祭り騒ぎな印象があるが、落ち着いた居住区もあるものだ。ただ地下鉄の駅はとても便利なので、その近くは例え居住区であっても少しだけ密集感がある。


『迷い込んだマーケット』

実は二度とその場所には行けなかったのだが、廟街の裏手(西側)の方にある市場に迷い込んだことがあった。本当にそこでは香港の人たちだけしかいないような場所で売り買いされているものがとてもびっくりするようなものだった。
今でも鮮明に覚えているのは、網の中で蠢く蛙。一人の男が売っているものは新鮮な蛙だった。網から取り出しては皆の目の前で捌いていく。新鮮だろ?と云っているようで、生々しいその解体現場に出くわし、価値観の違いを感じ取った。これを食べるのか?という思いもあったが、それは食習慣の違いなだけだ。過去に親父に食べさせられたこともある。それよりも解体を見せつける価値観が大きく違う。
日本人は生で食を楽しむが、生体の解体現場を見せて、その新鮮さを味わうわけではない。活造りやマグロの解体ショーがそうだというかも知れないが魚類は言葉鳴き声を発しないし、マグロは活きがいいが生きているわけではない。一方中華料理では生の食べ物はない。どんなものにも火が入っている。やはりどこかに食習慣の違いはあるものだと思わざるを得ない。新鮮さを見せ付けてもそういう食べ方はしないところが備えている食材への価値観の違いを感じないわけにはいかない。
食というのは実は究極の分業が備わっていて、私達はある過程の部分から目を背けて生きているのだということを理解した。色々な命のやり取りがそこかしこで行われている。食材とは究極はそういうことだというのを目の当たりにしたのだ。そしてその衝撃をその場所を離れてからも何度も何度も反芻した。
実はその場所をもう一度探そうと彷徨ったのだが、記憶違いか思い込みが激しかったのか、改めてその市場に辿り着くことが出来なかった。二度と行けない、行かなかったわけではなく行こうとはしたのだ。もう一度現実をしっかりと目に焼き付けておこうと思ったのだ。けれど、幻の場所だったかのようにその場所には二度と辿り着けなかった。

他にも旺角モンコックの方で蛇に囲まれたお店があった。奥では座って黙々と箸を動かしている人が見えて料理店だということに気付いた。多分精力をつけるためにあれを捌いてもらって食材として食べさせる場所なのだろうと思う。店頭に立つ女主人の怖い顔を今でも思い出すことがある。後は棺桶屋さんを見かけることもあった。狭い世界では裏方のお仕事も全て剥き出しになっているようなイメージだった。他の国ではまた別の価値観があるのだろうし、街の構成もその国の持つ価値観が現れる。単に価値観の違いなだけかも知れないが、それをエネルギッシュに感じることが多かった。

『こっちも一緒だという両替所のインド人』

毎朝起きては早くから朝飯を食べに行き、朝食の帰りには朝から開いているお店を物色したりした。
スーツケースを購入したのも朝だった。それを売っていたのは、泊まっている美麗都大厦(ミラドマンション)だったか、重慶大厦(チョンキンマンション)だったか、またその近くだったか。。。
おはようは広東語でゾーサンという。ゾーサンゾーサン云いながらお店の人に声をかけていくおばさんの後ろを付いて行き、元気よく挨拶を返すお店で購入した。
そのスーツケースは布製だったのでかなり安かった。
またホテルで出かける支度を済ませて、街に出るとまず寄るのがいつもの両替所。
インド人が多く住む重慶大厦の両替所に並んでいると非常に混んでいる。。。そこにこっちに来てみろという男がいるのだが、この店のレートがいいことを知っているので断ったのだが、彼は通じないのか?と呆れている。そんなに云うならと列を離れてみた。レートが悪ければまた戻って並びなおせばいい。そうすると奥では同じお店の系列店があり、誰も並んでいなかった。そうだったのか。。。レートはまるで一緒で交換されたお札も別に怪しいものではない。疑って悪かったと、帰りがけに声を掛けてくれたおじさんにお礼をいい、非礼を詫びた。旅先では声を掛けられると身構えてしまうものだが、別に全部が全部騙そうと思っているわけではないのだと思うこともあった。ただ、声を掛けられるとやはり身構えちゃうけどね。


『旅の友、御小遣い帳』

実はこの香港の旅から確立した一人旅のアイテム、御小遣い帳というものがあって、全ての支出を書き込んであった。
夜や暇な時間はそれを眺めながら香港での出来事や思い出の一つ一つを思い出す。当時のメモ帳は今はもう存在しないがこの方法論はこの前の高山・岐阜・安土・京都の一人旅でも行われた。もちろんだがその遣り方(というか書き方)も進化している。(笑)
今はお金のかからなかったことも0円として書き込むのだ。そうすることで全ての出来事が記録されるようになる。
一人旅の時間も最後の方になると、独り言が出たり、テレビをみながら声を出して笑ったりすることが増えてくるような気がする。
5日目くらいには、英語で喋っている夢を見て目覚めたのだが、別に思考法が英語に慣れたとか云うわけではないことが分かった。単に色々と細かい部分や考え方というか気持ちまでも誰かに英語でもいいから伝えたいという気持ちが強くなっていってそういう夢を見たのだろう。即物的なことは表面の表現(ジェスチャー)でも伝わる。。。が、感じたことを伝えようにも相手がいないというのはとても辛い状態だった。当時ネットカフェがあり、ブログというものがもしも存在したのなら、私はこの前の旅のように途中途中でバシャバシャと書き殴っては次の日に向かうというような旅をしていたかもしれない。。。と思うこともある。


『香港藝術館』

この時、香港藝術館ではエジプト展が開かれていた。ツタンカーメンの幟が印象的でミイラとか棺とか色々なものを見た。常設展示の方では余りいい印象がない。中国返還後だったことも関係するのかも知れないが、アヘン戦争や第二次世界大戦での香港の歴史の展示がされていた。でも最後の方ではクイズのような子供向けの展示が待っていて、正解の戸板を押すとクルッと裏返って、BINGO!という文字が見える。不正解の場合はなんと書いてあったか。。。regret?一問も間違わなかったのかも?いや、覚えていないだけだ。


『廟街での大量買付け』

最後の晩は、友達と香港島の方で逢う約束になっているので、廟街へのお出かけはこれが最後だと帰国の前々日の晩に訪れた時のことである。
廟街の名前の由縁である廟の周りには鉄柵が施されていて、その柵に色々な小さな掛け軸のような上部に極彩的な色の画を持つ来年のカレンダーが飾られて売られていた。
それらはちょうど「全色揃いのクレヨンの入れ物」のような箱に入っていて、取り出す横の口のところに「Hanging Scroll」と書かれている。1個250円(?)くらいのものだった。
お土産にいいなと色々な種類の画のカレンダーを箱から取り出しながら見せてもらい、数種類を各々数個、中には一つしかないものもあったが、選んで買うことにした。
そこで、教わった広東語の数字を駆使して、計算結果を伝え合うやりとりをした。18HKDのものを13個くらい購入したのだ。
でも売っているおじさんとなかなか数字(計算結果)が合わない。むしろ向こうが少ない金額を云ったりしている。。。座り込んで「違う、違う」と身振り手振りでこちらの計算結果を伝えていると周りに人だかりが出来てしまった。
埒が明かないと一つずつ購入する掛け軸カレンダーの入った箱を積み上げながら、掛け算の計算結果を一つずつ伸ばしていく。
その人だかりの人達が銘々私と同じ計算結果を広東語でハモッていく。とうとう最後の一つをその場の全員でハモるとおじさんは納得してお金を受け取ってくれた。
その場のみんなにお礼を云って頭を下げ、みんなからの祝福の拍手でその場を去った。

気分が良くなった私はおでんのような物を売っている場所が何箇所かあるのだが、そのうちの一つで、タコのような切れ目を持つフランクフルト大の食材を求めた。
実は食べ方とか買い求め方とか一番分かりにくいその食べ物。現地の若者が店主に何事かを伝えて私の買い物の補助をしてくれる。その場で食べるのか持ち帰るのか?と聞かれたのか、それともソースを付けないのか?とか聞いているようだった。全て広東語だったので真相は一切分からないが、無事その串に刺さったフランクフルトを湯に潜らせてソースのようなものを付けたものを手渡された。
今思えば日本の即席フードでも注文時に色々と注文を添えたりする”あれ”のことだったのだろう。注文時に「葱多めで」とか、「麺固めで」と出来上がりに注文を付けるものもあれば、店側も「辛子つけてもいいですか?」と聞かれたりとか。餃子でさえお持ち帰りの時は生か焼いたものかをお客に聞いたり。。。と少し会話をしないと買えない物があるのが分かる。旅の途中で疑り深くなることもあったのだが、最後の方では何もかもが絶好調だった。

購入した掛け軸は、1999年 世紀末のカレンダーを持つものだが、日本のカレンダーではないため祝日が一切分からない代物だった。
友達の家で世紀末が過ぎてもトイレに飾ってあるのをみたときは驚いた。自分はもうその時は持っていなかったから。。。

『友達と逢う』

香港に赴任している大学時代の友達がいた。街の公衆電話から職場に掛けると、「本当に来たのか?」と応じてくれた。
事前にメールで香港に来ることを伝えてはあったのだが、迷惑がらずに逢おうと応じてくれたのは助かった。本格的に誰とも話さずにいるので、なんとなく頭が整理できずに澱んでいるような気分になっている。
最後の晩に銅鑼湾(Causeway Bay)で逢うことになった。彼は北京ダックを食べさせてくれるという。北京ダックはここではしっかりと丸ごと一羽分を出してくれるので、一人や二人では食べられないということで同僚も連れて来てくれた。
彼らは空調機を取り扱っていた。「ここ香港のエアコンはキンキンじゃなきゃ売れないんだよなぁ。。。」と云っていた。私も部屋のエアコンが寒いくらいに冷えるというと、「ほんのりとか微冷とか微風とかいう日本の価値観が通じない」と云っていた。クーラーはどれだけ早く急激に冷やすことが出来るかという価値観だけ、いや本来そういうものなのだが、本質をそのまま極大に求めていくのがここ香港だと云っていた。
私は香港で回った場所やら感じたことなどを喋り続けた。「そうそう」とも「えー」とも色々な感想を聞けたのだが、やはり日本語が喋れるというのはその時はとても嬉しかった。
初めて食べる北京ダックだが、包み方を教わり、美味しい美味しいとドンドン食べる。お肉の部分は余り美味しくないが持って帰るか?と聞かれたが、身の部分は油っ気がまるでなくてとても美味しくはないと味わってから理解したので辞退した。
なんとなく気後れして中環(Central)の中の西洋人のビジネスマンが集うようなバーやレストランには近付かなかったのだが、彼らが行こう行こうと誘ってくれた。地下鉄の駅で地上に上がる手前でゲリラ的にトランクを開けて商売しだす男が居て、彼らがそれを見て購入している。売人は英語でとても安い本物だと押し殺した声で喚いている。まぁ売っているのはパチモンの時計だった。
バーで二人は「これがカルバン・クラインの時計だよ。」「こっちはエルメスだって。」と私に買った時計を笑いながら見せてくれた。本物を知らない私はパチモンの精巧度合いさえも分からない。見た目は意外といい造りだけどすぐに止まっちゃいそうだな?と笑っていた。

終電近くに尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)へ地下鉄で帰った。彼らは職場も住まいも香港島の方だった。


『さらば香港、Mr.Hanging Scroll!!』


旅程のどの辺りで行ったのか。。。。
九龍鉄道で沙田に行き、そこで沢木耕太郎のように、国境がみたいということで交通機関(バス)を探した。中国返還後なのだから国境はもうなかったのだが、old international borderにはどう行ったらいいのかと駅前のバス停で色々と聞き回ったのだが、もう国境はないと云われたり(知ってるって!)するばかりで、もどかしかったことなどもあった。結局断念した。

まぁ色々あったが最終日(出発の日)は昨日友達たちが喜んで買っていたパチモンを探したりしていた。これがG-SHOCKね。。。というC-SHOCKとかいう紛い物(まがいもの)を売っているお店などもあったりしたが、ああいう見た目重視のブランド系のパチモンはゲリラ的な商売をしている人だけが扱っているようで、店舗を構えるようなものはもっと奥の目に付かないような場所で商売しているのかもしれなかった。
冷静に立ち返って『俺は何を買おうとしているんだろう』と思い、乗り遅れが効かないfixedのチケットなので、そんな買い物は止めて早々と空港へ向かうバスの停留所を探した。

煙草は旅行の前日に買い込んだものと羽田の免税で買ったもので間に合ったので、香港では一箱も買わずに済んだ。


九龍公園で記念に撮った写真が下の写真だ。最終日の前日あたりで撮ったものだと思う。
タイマーが待ちきれずに立ち上がったピンボケの写真なので公開しましょう。
今より15kgくらい体重が少ない13年前の写真なので、随分違う。
周りでもヤッ・イーッ・サムッ!(1・2の3)で写真を撮っているグループが何人も居た。

フィルムで撮ったカメラは今だとトイカメラのように味のある写真になるんですね。。。

空港に向かうバスの車窓。まだ訪れていないと思われる街の数々。
全て行きつくしたと思っていたのは大きな間違いだった。

空港内での喫煙場所は少なく、チェックインが始まるまで空港の外で煙草ばかりを吸っていた。
チェックインの際、今度の飛行機はすべて通路側を押さえた。煙草を吸いながらメモを眺めたりして様々なことを思い出していた。
香港では運よくなのか一切の降雨に遭わなかったし、適度な気温で過ごすことができた。
出国検査を済ませ、中の免税店で煙草を買い込み、多くのお土産は現地で調達した布地のスーツケースに入れて、自分は大事なものだけを手に持って、うろついていた。
トイレを済ませて出ていこうとすると、トイレの入り口付近ですれ違いざまに、「Oh、Mr.Hanging Scroll! you did it?」と声を掛けられた。。。。誰だ?と訝しんでいたのだが、やっとのことで思い出した。Mr.Hanging Scroll?確かに私は手荷物に剥き出しで「掛け軸」を持ってうろついていたのだが。。。。
声を掛けてきた彼は上環の摩羅街(Upper Lascar Row)、別名(Cat Street)で私に掛け軸の講師をしてくれた高級骨董品店のあの若い店主だったのだ。あぁ。。。。!!と唸って思い出したと、トイレの外で彼を待った。そうなんだ。買えたんだよ。花ともう一つは鶴(わからないのでbird)!君はどこに行くの?と聞くと、彼はこれから買い付けに台湾に出かけるというのだ。掛け軸の購入成功おめでとう!と祝ってくれて、握手して別れた。
いきなり「掛け軸さん」と声を掛けられてびっくりしたのだが、香港を出る最後の時間に彼に再会出来たことで胸に残る思い出が出来たと嬉しかった。

羽田では大量に購入した掛け軸型のカレンダーのお土産を疑われて全部の荷物、クッキーの中身まで全部開けろとかいう事態にもなったが、何一つ変なものは持ち込んでいないので笑顔で応対した。

蒲田方面に出ていくバスで帰ってみることにする。帰りの飛行機も行きの飛行機も時間が決まっているものにはかなりビクついたが、もう時間に追われるようなものはない。家にさえ着ければいい。。。
香港で過ごした2畳の部屋。あれに比べれば随分と広いお城のような(嘘!1DK)我が家に帰還したのだった。


おしまい、多謝(ドーチェ)、再見(ジョイギン)


追記:
敬老の日の前々日、実家に帰り、ごそごそと戸棚を漁ると私の香港で購入した掛け軸が出てきたので、掛け替えて撮影してみました。
以下の写真がその掛け軸です。


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香港旅行記4 1998年11月

2011-09-18 01:37:14 | 懐かしい思い出
『毎晩の廟街』

昨日に続き、また訪れたナイト・マーケット廟街。
当時はそれほどお酒を呑む習慣がなかったので、ほとんど酔ってはいなかったはずだ。フラフラとやってきては廟街を一番奥まで行って元の場所まで戻ってくることを毎晩のように繰り返していたが、最後の方では『おおここはあの辺だな?するともう少しで大きな通りに一旦ぶち当たるな』とか、『この店がでてきたということはもう少しでendだ』という感のようなものが働くようにはなっていった。

ここで言い訳のようだが、「お土産を買うのだ」という口実で毎晩のように廟街に通い詰めていたのだが、最後はお土産を買うためだけに海外まで来たわけじゃないと思うようにもなった。買い物をする程度のことは、『それ違う!あれ、その向こう、そう』を(That is not it! that that,over there! yeah!)みたいな適当な英語で楽しんでいた。
合っているとかいないとかいうのではなく、結果通じたか通じないかだけで、向こうは売りたい、こちらは買いたいという意思さえ通じ合えばなんとでもなるような気持ちが芽生えてきた。ただ、さっきも書いたように、お土産ばかりを買っている自分が馬鹿らしくなることもあった。。。本当は香港で何がしたいのだろう?と考えると何がしたいというのは別に浮かばなかったのだが、色々と感じ、色々と考えるいい機会なのだと思うようになった。後は食事を中心にしたチャレンジ精神の鍛錬かもしれなかった。


お土産、さすがに日本の漫画のパクリTシャツは買わなかったが、アクセサリーや帽子や雑貨など、日本円に換算して安いと思えばいくつか購入することもあった。余り『それ高い、もっと負からない?』という交渉はしていない。それが提示されていればその値段に納得するかしないかだけだった。値段が書かれていないものは余り聞かなかったし、欲しいという衝動が起きなかった。

他にお土産に買ったものはクッキーを部署の人達用に買った以外では、8種類くらい用意し、会社の同期には1から8までの好きな数字を云えというメールを出し、回答をくれたものから順番に品物を渡していった。
番号がダブっても、何度も聞きなおすのも面倒だから、1が一つしかない帽子だったのだが、複数人が1といってきた場合は売り切れた時点で勝手に2に繰り下げてお土産を渡した。

帰国後にみんなあげたお土産は実は全て自分用にも買ってあり、帽子は実は私の分とお揃いになってしまうというなんとも如何わしい(いかがわしい)お土産になってしまった。

『腸粉』

たまに通りの脇にある飛び込んだレストランでは「腸粉」というものを頬張ることが多くなった。鮮蝦腸粉という、ぷりぷりの海老をぷるぷるの米で出来た雲丹のお化けのようなもので包んだものが代表的で、一度食べたら病みつきになった。「one more」と人差し指を立ててお替りをお店の人にお願いすることもあったほどだった。
(口絵の写真参照)


『HAWAII KONA COFFEE』

よく飲んでいた飲みものは何故か缶のハワイのコナコーヒー。
コンビニで必ず帰りに買っていた。量が多くて高くなかったこともそうだったが、クリーミーな割に美味しい珈琲だった。
まさか香港でハワイの珈琲に出会うとは思ってもみなかった。

『タピオカ入りのドリンク』
今では日本でもよく見かけるが、当時は台湾発と云われていたタピオカ入りのドリンクを香港の街角で見かけることが多かった。
なんとなくではあったが、少し気味悪く感じて手を出すことができなかった。

『飲茶とガイドブック』

香港の人は朝から飲茶だ。
飲茶とはお茶を飲みながら、ワゴンに乗せられた点心を選んで食べていくのだが、ページ縁が青く塗られている「地球の歩き方」を手に持って店に入ると、「ヤップーヤン(日本人)、ヤップーヤン、ウーロンチャ、ウーロンチャ」と馬鹿にされたように呼ばわれた。「地球の歩き方」を手に入ってきたのが拙かったのか、その呼ばわり方も気に食わなかったが、毅然とした態度でプーアル茶(普洱茶、Pu'ercha)を頼むと、烏龍茶じゃないのか?と確認される。ふーんという顔つきで納得している。多分「地球の歩き方」を手にした日本人が、非常に多く訪れるお店だったのだろう。たかを括られたのは、ガイドブックの弊害のような気がしたが、向こうも悪気があったわけではなく親しみを込めて烏龍茶と言ったかも知れなかった。

運ばれてくるワゴン車には角煮を餅米でくるんだちまきやらプリプリした点心が運ばれてきておばさんが私の方にも蓋を取って見せてくれる。
指を指すとその蒸籠を置いていってくれるのだ。単純だがお茶の名を告げる以外は言葉を交わさずに楽しめるのも気楽ではあったが、朝から精力的に食べるのはこちらとしても大歓迎だった。お粥を食べに行くこともあったが、2度ほど飲茶のこの店のお世話になった。
最後にお会計の儀式があり、伝票に書かれている金額より少しでも多目のお金を払い、向こうが様々な種類のお札や硬貨でお釣りを持ってきてチップ分を残してお釣りを受けとるのだ。いくらくらいが妥当なのかの相場が分からなかったが、Thank you を連発されたときはさすがにあげすぎたのだと気付いた。


『新しい宿とチェックアウトの心配事』

3日目の朝、飲茶で朝食を済ませてホテルに戻り、さぁ新しい宿を探すのだが、ガイドブックに出ているゲストハウスという類に電話かけて、条件と値段を交渉することにした。
要求したのは帝国酒店にはない”窓”と、付いておいて欲しい”シャワー”と”トイレ”、”エアコンディショナー”、後はベットだと伝えた。
全ての質問にyesと答えてくる。全て付いているというのだ。値段もかなり安い。(値段は忘れた。多分5泊で6,000円から7,000円くらい)ならば今から行くからと伝えた。

そこで帝国酒店をチェックアウトしたのだが、ホテルマンは部屋からかけた電話代を払って欲しいと云ってきたのでもちろん応じた。日本で先払いしてきた宿代は取られないのはもちろんなのだが、私はデポジットを到着時にカードで切っている。デポジットはどうなったんだ?と聞くと、あぁと云ってビリッと破いてみせた。私にはそのデポジットの仕組みとカード払いがその紙を破ったことで無効になるという仕組みを理解していないので帰国してからも不安だった。


『新しい宿、ゲストハウス、small room!!』

新しい宿は名前は覚えていないが、美麗都大厦(ミラドマンション)という重慶大厦(チョンキンマンション)の少し先にある香しい(かぐわしい)名前のビルの中にあるのだが、行ってみてビックリ。ほとんどいかがわしさは重慶と変わらないレベルだった。3階から上は全て中庭をみるように内階段の構造だった。2階まではフルのフロアで一旦中庭を持つフロアに出るのだ。そしてエレベーターも付いているが内階段の回廊型のビルだった。


指定された階に登り、受付で5泊分の値段を払うと鍵と数字を書いた紙を渡された。その紙の数字はなんだろうと思っていると、従業員の一人が上の階まで私を連れて行き、ドアのところに付いている数字式の南京錠のようなロックにその数字に合わせて開けてみろと云っている。その数字に合わせたら確かに開いた。
一番奥の部屋がお前の部屋だと云われたので、ドアの中を覗き込むと左右にいくつかのドアがあり、その奥の正面にもドアがあって、それが私の部屋で渡された鍵で開けることができる部屋だというのだ。じゃ!と従業員は階段を降りていく。チェックアウトの時は必ずその鍵を持って来いよと云っていた。
入り口のドアを閉めたらまた今まで嗅いだことの無い別の鋭い匂いのする場所で、一番奥の部屋まで全てピンクのペンキで塗り潰されていた。狭い通路の横のドアから誰かでてくるのか分からず、少し怖かった。

奥まで進み、ドアに鍵を差し込んで開けてみると、そこには正味2畳、一坪の部屋が広がっていた!
ドアを開けて半畳くらいのフリースペースがあるだけで奥に横になっているベットが1mくらいの高さの板の上に布団だけ敷いたようなものであり、ベットの真下が空洞になっていて、大きな荷物置き場となっていた。
ベットに登ってみるとベットの足元の方にさらに一段高い板が置かれ、そこには灰皿とテレビが置いてあった。
窓枠には小さいがうるさいよく冷えるクーラーが据え付けられている。
入り口の半畳スペースの横にレールのカーテンがありそこを開けると洋式のトイレだった。
???シャワーは?と思い、上を見ると便器の上の方にシャワーが付いている。トイレでシャワーを浴びろというわけだ。
入り口の方をみると天井から細い梁のようなものが垂れていた。

思わずそのあまりの狭さと全てを詰め込んだ部屋に驚き、大声で嗤い始めてしまった。
ベットをバンバン叩き、涙をこぼしながら、自分の引いた途轍もなく面白い部屋に感激したのだ。確かに窓もあり、エアコンもついていて、トイレもあり、シャワーもあった。確かにその通りなのだが。。。。予想した以上に上級者向けな部屋に驚いた。


ひとしきり嗤うと、荷物をまとめ、着替えて出かけることにした。
ドアを開けると狭い通路の左側のドアが開いていて、複数人のフィリピン人と思われる女性達がこちらを向いて笑っていた。さっきの馬鹿笑いが聞えていたのだろう。少し恥ずかしかったがぺこりと頭を下げて挨拶したのだが、含み笑いのような顔でドアを閉じてしまった。
何人で部屋をシェアしているのだろう。。。彼女達は『頭のおかしな奴が来た』とでも言い合って笑っているのだと思った、共同で使う入り口のドアを閉めるまで彼女達の笑い声が消えなかった。

『オーシャンパークと遊園地』

この日、行ってみようと思った場所は香港島の南側にあるオーシャンパーク(だったかな?)という水族館。伊豆三津シーパラダイスや八景島シーパラダイスのような場所だった。
香港島に渡り、それらしいバスを見つけて、オーシャンパークに行くか?と運転席から降りて煙草を吹かせている運転手に聞くと、チケットはあそこで売っている、入園券とセットで買うと安いとかいう情報を教えてくれた。あともうすぐ出発だ、急げと喚かれた。
施設の中は水族館とイルカやアシカなどのショーが開かれる会場がある。後方で遠目にそのショーを見ていたのだが、全てのショーがバイリンガルだった。
広東語のあとに必ず英語が流れる。今でこそ日本の電車でもNext station is・・・と流れるが当時はそのバイリンガルな香港がとても親切な場所に感じられた。ただ単に統治下だった影響でそうなっただけかもしれないが。。。子供達はキャッキャとはしゃいでいた。

ロープーウェイのある遊園地にも行った。ただ同じ日に行ったか別の日に行ったかの記憶が曖昧である。連れがいないとそのロープウェイも一人だけの乗車になる。
向かい側に降りてくるロープウェイに子供が乗っていれば必ず手を振ってくるのだが、私が一人で乗っていることに気付いた子供達は百発百中、手を振り終わると親の方に、『あの人一人だよ』と囁いているような仕草が辛かった。
園内で乗った小さな周遊電車みたいなものに、西洋人の夫婦が2組と私が一人で乗ったのだが、私は現地人とでも思われたのだろう。西洋人たちはちょうどリタイアされた方々のようで、私達はカナダのトロントから来ました。私達はアメリカのカリフォルニアから来ましたと、自己紹介が始まっていた。
水族館も遊園地も一人で行くところではない。会話といえばこれくれあれくれとかを英語で交わすばかりになっていく。たかだか1週間な旅行なのだが、この水族館と遊園地に一人で行った印象はかなり強烈に骨身に染みていて、日本だったら確かに一人では来ないかな?と自虐的に笑うしかなかった。

そういうリゾート的な部分でいうと赤柱という浜辺があり、ガイドブックには泳げると書いてあった。確かに水着も持ってきてはいたのだが、泳ぐというのはかなりの安心感がないと出来ないと感じた。パスポート、帰りの飛行機のチケット、もちろん財布などなどホテルに置いておけるものもあるのだが、失くしたら困るものを数多く一人で身に付けている状態で泳ぐというのは余りにも開放感に包まれた行為だと思った。そこまで安心できることはこの旅行の最後まで訪れることはなかった。

『Cat StreetでHanging Scroll』

上環(ションワン: Sheung Wan)という中環から西に路面電車や地下鉄で行ける果ての街だが、親からもらった、「掛け軸を探してきて」というミッションを果たすために複数回来ることになった。ここから澳門行きのフェリーが出ていたりする。
骨董品街で、高級そうなものからインチキそうなものまで色々なお店があるキャット・ストリート摩羅上街Upper Lascar Row 別名Cat Street という場所に通った。


初めて訪れた時に入った一番初めのお店では、本格的に高いものが飾られている。若い店主が「説明します」というので、余り高いものは買えないんですけどと断ったが、構いませんと色々なことを教えてくれた。
山水や中国で有名な画家が描いたもの、掛け軸はHanging(掛ける)Scroll(巻物)と英語で呼ばれることを教えてもらったりした。若い店主といっても当時の自分と同い年くらいのその人はこれなんかも結構いいんですよと次々と広げて見せてくれたり、店の奥の方に飾られているものを見せてくれたりした。
やはりそれは所持金を全て渡しても足りない以上の値段で日本円で○十万円するようなものばかりだった。溜め息が出るばかりだ。予算を聞かれて「1万円くらいでないものか?」と聞くと沢山の店があるから気に入ったものが手に入るかは分からないけど、もっと安いものから扱っているお店もあるので探してみなよと教えてくれた。

Good Luckと励ましてくれる店主、初っ端のお店が高級本物店だったことは良かったのか悪かったのか。。。お礼を云って退店した。

何軒か訪ねたお店の中で、御婆様二人で開かれている店があり、Hangnig scroll、flower、ジェスチャーでツルツルツルと巻物を解く様や両手で花の形を作ったりして意思を伝えると小汚い掛け軸を出して来てくれた。
それは名も知らない花が墨水で描かれ、なんとも味のある掛け軸だが、ところどころ煙草の染みのようなものが散らばり、絵の脇辺りは少し破けているようなものだった。値段を聞くと1,000円しない。花の掛け軸はこれでいいか?と購入することにした。(笑)
実家に持っていくと親父はせっかくの新居にこんなの飾れないよと笑っていた。

他にも銅鑼湾(Causeway Bay)で掛け軸や絵画などの即売会が開かれていて、ちょうどいいとばかりに、たっぷり吟味した上で10,000円くらいの大きな鶴と松の掛け軸も購入した。もちろんそっちも実家に飾られているのを見たことがない。(笑)

ただ、骨董品や絵画を買うというのは、思った以上に楽しい買い物だった。

この前書いた、現地で調達したガイドブックが出てきたので、写真に撮ってみた。写真をクリックしてみてもらえば分かると思うが、'98版だというのが分かる。



実は川越に転勤になったばかりの頃、ちょうど同僚が香港に旅行に行くというので貸した記憶がある。
その時は結構役に立つと云って貸した気がする。。。記事では眺めるだけだと書いていたが。。。
小さい方は乗物のガイドブックだ。
トラムとかバスや高速鉄道の値段や種類が出ていた。
この現地のガイドブックが便利と書いてあったのは「地球の歩き方」の中だったのだ。
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香港旅行記3 1998年11月

2011-09-14 06:46:42 | 懐かしい思い出
香港の初日の朝をどう迎えたのか・・・実は余り記憶にない。
初日はまだ様子見というか、、、、

訪れた場所と乗った乗り物や食べたものを中心に書いていこうと思います。


『地下鉄で九龍城のあったと思われる場所へ』

まず、向かった場所は九龍という地下鉄の駅。まだ日本では当時普及していない自動改札や磁気系のsuicaやpasmo的なカードもあったが、都度払いを心掛けていた。まぁ後で換金するのも大変そうではあった。なので、乗る前にはいつも行き先を完全に決めていた。行き先変更で追加料金を払うことも出来ると思うが、それはしなかったと思う。

九龍城という巨大な変形的な建物群が以前存在したとの話しか知らなかったのだが、そこでは重鎮なんかよりも怖い「近寄ってはならない場所」というイメージだけはあったのだが、駅から降りると、閑静な住宅地で並木もあり、なんだか拍子抜けな印象の街だった。
確か九龍城は折り重なるように建物が継ぎ足されて(増改築の繰り返し)まるで迷路のような建物で、「一度入ったら二度と出られない」という触れ込みを聞いたことだけしかなかった。返還前の無法地帯でもあり、Mr.B00ギャンブル大将でも出てきたと思う。


まぁやはり取り壊されて十分な時間が流れたのだろう。何もない街をすぐに離れることにした。次に向かったのは、太子(Prince Edward)。隣駅だけど、少し歩くのが不安で彌敦道(Nathan Road)の一本道とは違うので覚え立ての地下鉄に再乗車した。


『バードガーデン』

香港ではペットに鳥を飼うのだという。しかも綺麗な鳥篭を見せ合うとか?犬猫ではなく何故鳥なのか?太子からバードガーデンに向かうとそこには鳥を飾り、篭を見せ合う人々が本当に来ていた。
様々な鳥篭が売られている。。。竹で出来ているのか、バルサ?その木製の鳥篭は確かに綺麗な形をしている。吊った篭の屋根は金閣寺のような綺麗な形をしていて、四角い篭の下の4隅の部分には飾りが垂れている。とても綺麗で日本の鉄製で丸味を帯びているものとは違い、持ち運んだり見せ合うのに相応しい。

そこから旺角(Mong Kok)まで歩いて女人街の方に行ってみた。
もう一つ香港で珍重されているペットが金魚でこれもよく売られていた。金魚掬いでもらえるあの小さなビニール袋にパンパンに水が張られている中に綺麗な金魚が1匹ずつ詰められていて所狭しと飾られていた。この「所狭し」という過密さに香港のエネルギーが詰まっているように感じられた。鳥の皮を開いて炙り焼きしたものを並べたりとかもそうだった。吊るされ方や並べ方に凄い特徴があると思う。賑やかで華やかで惹きつけられるお店の特徴があってこっちの気分も上がってきた。ただ、そのうちどの街に行っても同じような派手なお店を見て少し食傷気味にはなるのだが。。。

『女人街』

油麻地の西側の「廟街」別名 男人街(ナンニンガイ)に対して、旺角(Mong Kok)の彌敦道(Nathan Road)の東側には女人街(ニョニンガイ、ノイヤンガイ)が存在する。そこまで行くと昼間にも関わらず出店が出ていただのが、アクセサリーや女性の下着、チャイナドレスなど、私にはまるで縁のないものばかりが売られている。。。。
夜に再訪したら印象が変わったかもしれないが、この旅の最中にもう一度訪れることはなかった。

『スターフェリー』


旺角(Mong Kok)から尖沙咀(Tsim Sha Tsui)に戻り、改めて昼間の街を眺めながら港を目指した。対岸の香港島の中環(Central)から銅鑼湾(Causeway Bay、トンローワン)辺りの高層な建物が有名な夜景を醸し出してくれるはずで、昼間見たそれは確かに未来都市のような様相だった。
地震がないということから高層ビルを建てることに躊躇がないのだと思う。また人口の過密さから高層系のマンションも必要になってくるのであろう。そうするとペットが鳥や金魚などの基本室内で飼育できて糞の始末が楽なペットというのも頷ける。
港に着くとあの有名なスターフェリーがあり、それに乗り込んだ。実はこのフェリー記憶が定かでないが中環(Central)行きと銅鑼湾(Causeway Bay)行きの2系統が存在していたと思う。私は中環(Central)行きを選んで乗り込み、船の中の椅子で窓際にかじりついた。離岸・着岸の時は波止場をガン見し、それ以外は迫り来る香港島や帰りは九龍半島側の向こう岸を眺めるのが好きだった。だが、やはり好きなのは香港島側に行くときだった。

中環ではバスや路面電車が走り、その発着所があって香港仔(アバディーン)という船上生活者が住むという場所へ向かうバスに乗った。

『香港仔(アバディーン)』

着いた波止場では何艘もの船、船のレストランを見たのだが、もっと奥の方に行かないとその生活の様子は見れないのかもしれなかった。
まだ香港島そのものに慣れていないこともあり、そんな派手な客船のレストランに入るつもりもないとバスに乗って都市部に戻ろうと思った。

『公衆トイレ』

バスで戻る前に催したので、トイレに向かう。
香港のトイレと初めての対面だった。
ホテルのそれとは別の公衆トイレの大は、そうですね。隣との壁はお腹から胸くらいの高さまでしかなく、和式だった。(和式という言葉はなんかおかしいのかもしれないけど)
なので隣から覗き込まれる危険性もあった。よく考えれば『そんな見たくもないものをわざわざ覗き込むかい!』と思えるのだが、なかなか排便することが出来ない!ようやくの思いで済まして立ち上がると遠くの方でこれからしゃがもうとする人が見えたりする。
向こうは何も頓着していない。当たり前のことなのだろう。。。これには軽いカルチャーショック的なものを覚えた。

『お昼と買い物』

尖沙咀(Tsim Sha Tsui)のホテル周辺に戻り、遅いお昼を摂った。近くにちょうどデパ地下のようなフードコートを持つ場所を見つけ、昨日覚えた指差しと「this one」そして別のものを頼む時には「and this one」と置いてあるメニューを指で指していき、注文を完了することが出来た。出てくるものは少し日本で慣れ親しんだものとは違い、香草をはじめ何かの香辛料なのか、全体に独特の匂いを持っている。
食事を済ませると隣の書店に行き、香港の交通ガイドなる現地語のガイドブックを購入した。とても便利と書かれたその地図は眺めるのには最高だったが、十分な用を果たすことはなかった。路面電車と地下鉄の走破はしたが路線を知るのにはあまり役に立たなかった。広東路の方に向かうとデパートが出てくる。そこに入っているHMVを訪ねてみたのだが、日本のアーティストも置いてあるのだが、邦人のCDだけ高くちょうど日本の値段と変わらない設定になっている。。。他に薬局を回ってお袋が少し前に入院した静脈瘤にいい薬を探そうと思ったのだが、余り奇怪なものは日本に持ち込めない(ワシントン条約)というので諦めることにした。

『姉妹との再会』
昨日ホテルから着いたばかりの部屋から電話し、今日の夜に会うことを約束していた。九龍公園の入り口というのでここでいいのかと不安になったが、二人が揃って笑顔で現れてくれたのでほっとした。姉の方は尖沙咀(Tsim Sha Tsui)で会計事務所に勤め、妹は中環(Central)で香港中央銀行に勤めていると云っていた。
何が食べたいのかと云われたのだが、広東スタイルはいつでも食べられるから上海料理に行こうと云われて近くのビルの料理店に入った。
そのレストランの入り口で順番待ちしている間にどこに行ったのかという質問攻めにあった。
テーブルについてからの注文は彼女達に任せていた。
英和と和英の両方がついたコンパクト辞典もあったので、真ん中にそれを置いてお互いに言葉が通じない時はそれを使ってみた。
お茶が運ばれてくる。ガイドブックに出ていたお茶を入れてもらったときのジェスチャーの意味を確認してみた。相手の湯飲みにお茶を注いであげると、注いでもらった人が「ありがとう」の意味で湯のみの横で指をトントンとテーブルを叩くということが書かれていたのだ。「本当に『ありがとう(Thank you、ドーチェ)』という言葉を添えないのか?」と聞くとその通りだという。。。姉妹でその様を見せてくれたが言葉を発しないありがとうというものがあるのかと感心した。ただ少し偉そうだね?と聞くと、そうかな?と言い合っている。そうすると料理が出てくるまで慣れろとばかりに姉妹で交互に私の湯飲みに茶を注ぎあい、その指トントンのジェスチャーを要求してくる。すました顔をしてトントン、トントンと叩くのに慣れてきたので、姉妹が香港の人みたいだと褒めてくれた。
彼女達は飲茶には行ったのか?と聞いてきたので、まだだよと答えると、お茶の種類を私のメモ帳に書き込んでくれた。一番ポピュラーなのが普洱茶(プーアル茶)だと教えてくれた。
また海老(鮮蝦)や豚や牛などの食材と麺、粥、飯などの主食の単語を書き込んでくれた。もし言葉が通じないもしくはメニューがない場合は、このメモを見せて指を指してみたら?と指南してくれた。
なるほど、海老ラーメンを食べたければ鮮蝦と麺を指したり、紙に書いて見せればいいわけか、、、、あとメニューが漢字だらけならこれらの単語から類推すればいいのか。。。
これは便利だとどうもありがとう!とお礼を云った。この上海料理屋(雪国とかいう名前だったと思う)で食べた料理がどんなものだったか忘れてしまったが最後はほとんど辞典がいらなくなっていた。
お会計の段になり、俺が払うからというとそれは駄目だと勘定書きを渡そうとしない。日本でご馳走になったのだからと一点張りなのだ。友達とみんなで奢ったのを私一人で受ける訳にはいかない。頼むから俺に払わせて欲しいというと、それならアイスクリームを食べに行くのでそこの会計を頼むと云ってきた。申し訳ないやらなんやら一人で異国の地に居る寂しささえも紛らわしてもらった上にご馳走になるなんて。。。ありがとう、それじゃあアイスクリームを山ほど食べて欲しいとお礼を云った。
アイスクリーム屋に向かいながら、広東語の数字を覚えさせられた。ヤッ・イー・サッと何度も復唱しながらあらかたの数字を広東語で云える様になっていった。
これは後々大変役に立つことになる。
アイスクリーム屋で私はAlmond(アーモンド)と書かれたアイスを頼み、彼女達も各々のアイスを頼んで、私が払うと「ドーチェ、ドーチェ」と笑いながら頭を下げている。こっちも日本語で申し訳ないと少額の返礼のお詫びを日本語で伝えて笑いあった。
一口食べると、その味はまるで杏仁豆腐のそれだった。アーモンドとはalmond、チョコに入っているあの豆だとばかり思っていたのだが、二人は「だって杏仁はalmondじゃない」と云っている。。。。これは多分国際的な勘違いが生まれているのだと思った。
杏仁とはアンズの種の中身の仁(じん)の部分のことだと思う。アーモンドはナッツでこれも種の仁の部分だが、どうも別種のものを混同しているかも知れないと感じた。それは上手く言葉で言い表せないので、伝えることを諦めた。

九龍鉄道で沙田の家に帰るという二人を送っていこうとしたら、ここでいいよというので、彌敦道(Nathan Road)のところでお別れをした。

それからホテルに帰ろうと思ったのだが、やはり「廟街」に行かねばなるまいとフラフラと香港の夜景を眺めながら街の方へ歩き出していた。明日はホテルをチェックアウトし別のホテルに行かねばならないのだが、香港の街を歩いていればそんな宿はすぐに見付かると腹が据わってきたのだ。言葉を覚えたことが私を少しだけ強くし始めていた。


~つづく~
※これは1998年の記事です。勘違いなされませんように。

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男一匹一人旅 香港旅行記 2 1998年11月

2011-09-11 06:48:00 | 懐かしい思い出
『台北空港にて』

自分もそうなら皆もそうだろう?と高をくくっていたのだが、乗り継ぎをするという人達が小さな紙に書かれた「HONG KONG」という文字をもつ人の指示で誘導されていくのだが、トランジットの乗客は実はそう多くは無かった。

すると歩いている私に「Are you Japanese?」と声をかけてくる御婦人がいた。
「Yes、はい」と答えると、胸を撫で下ろしながら、「香港に行くのですか?私もです!」と英語で質問をされた。
「はい、私もgo to香港です。」と笑いながら答えると、また英語で「あなたの職業はなんですか?」と聞いてきた。
『うん?これはどういうことだろ?TOEICみたいだぞ』と訝しんでみるものの。。。日本語で「サラリーマンです」と答えると、変な顔をしだした。
『あぁやっぱり、日系人なんだ』と気付いて「enproee、work at planning division」と答え直した。

ロビーに着くと、ハワイに住む日系人だが、息子が転勤だかで香港で勤めているらしく、チケットを贈ってもらって乗り継ぎながら来ているものの、不安で仕方がないらしく、香港に行く人が周りにいないかと探していたのだと捲くし立てられた。

私はガイドブックを出し、「息子さんの住むのは香港島?それとも九龍半島の方ですか?」と聞いてみると九龍の方で勤めはいつも中環Central:香港島の方に行っているらしいと教えてくれた。本の巻頭についている折り畳みの地図が役に立った。

いきなりの英会話が始まってしまい、懸命な状態なのである程度聞き取ることはできるものの、伝えたいことは少ししか言葉にならないことがここでももどかしかった。

そうこうしているうちに、私は無性にタバコが吸いたくなった。
乗り換えたらまた禁煙の飛行機の中。
今なら考えられないが、当時の私はヘビースモーカーに超が付くくらいの量を吸っていたので耐え切れない状態に。隠れて高校生みたいにトイレの中で吸ってみたものの、余り美味しくはなかった。。。。

飛行機を待つ間、気付いたのがここはもう日本じゃないということ。
羽田では日本語と英語と中国語でのアナウンスを聞くことが出来たのだが、もう何も聞えてこないような状態になっていた。

飛行機に乗り込むと今度は窓際が2席、真ん中4席、の一列8人掛けの飛行機になっていた。ひと回り小さい飛行機に乗り込むのは極端に少ない人数。
飛び出すときのエンジンが頼りなく聞えてきて、『頑張れ』とエンジンの方に祈っていた。トランジットした時間はもう夕暮れよりも夜に近い空。機内の電気は一旦消されての離陸だったので、怖さが倍増した。

私の座った場所(左端の窓側)から前方に一人の僧侶が袈裟を着て座っていた。後は後方の随分と離れたところにハワイからのおばさまがいた。僧侶の方は特別食なのか、機内食をいきなりもらって食べ始めていた。

私は何を食べたのかまるで記憶がないが、トランジットだと2食食えて助かるなぁと思っていた。このときは北京語と広東語(だと思う。もしかしたら英語でも言われたかも)での質問だったので、何を言われても、meatと云おうと決めていたと思う。

夜の到着だったので、着陸時に見えた香港の夜景はどこがどこだかよくわからない。意外と電気がまばらだと思ったのは、もう空港そばの地域まで来ていたためであろう。あの離着陸の難しいと云われていた啓徳空港ではなく、操業を開始して間もない今の国際空港(ランタオ島(大嶼山) )の方に到着したのである。

荷物が出てくるところで、ハワイおばさんと一緒に待ったが、おばさんの方が先に出てきて、鼻に人差し指を当て、進行方向にその指を持っていき、そのジェスチャーで『先に行くね』と云われた。なので、軽く手を挙げてバイバイと振った。

出てきた荷物は軽く凍っていたようで、布地のバックからドライアイスのような湯気が出ていた。こんなになるなら預けなきゃよかったよ。。。。と初めて知った。だからみんなあの頑丈そうなスーツケースを持っているのね?と気がついた。

イミグレーション、入国検査のところに、「Foreigner」だったかな?と書かれた方に並び、目的は?的なことを聞かれたら「sightseeing」と答える儀式はすぐに済んだ。

入国審査を終えて一番に向かった先は喫煙所。もう3本くらい立て続けに吸い込んだ。

『バスでホテルに向かう』

尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)、今日と明日はそこの彌敦道(Nathan Road、ネイザンロード)という大通りに面した帝国酒家というホテルに泊まることになっている。まずはそこを目指そうと、バスを探した。そしたら、もちろんだが、香港ドルが必要になり、慌てて空港内に戻って換金をした。

お釣りが出ないタイプだったと思うが、仕方がないとは思えず、バスの発着所の横に行き、もらった札束をさらにsmallにexchange!と伝えて小銭に替えてもらってピッタシ投入した。

バスの車窓は初めはいつまでも単なる高速でつまらない景色だったのだが、街に近付いていくとあのネオンサインが徐々に増えだし、『とうとう香港に来たのだ』という実感が沸いて来た。カラオケと思しき文字が見えたりもした。裃拉OKという文字のサインだったような気がする。

バス停の案内を注意深く聞き取り、尖沙咀の文字を確認して降りるボタンを押して降り立つと凄い人いきれに圧倒されながら、ホテルを探した。思ったよりも細長く、隙間に押し込められたような造りになっていた。入って名前を告げるとクレジットカードを出してデポジットを払えと云って来た。後の精算時になんとかなるだろうと思い、当時は余り信用出来なかったカード払いに応じた。

部屋に入るとビックリしたのが、窓がなかった。細長い造りの建物にある窓は貴重な部屋にしかないのだろう。
ガイドブックと財布とパスポートをリュックに詰めて、街に出ることにした。
機内食を2度食べて別段お腹は空いてはいないものの、何かを食べることと地図に書かれた街の広さを体感するために、彌敦道を徘徊してみようと思った。

『廟街を目指して』

エレベーターで「1」を押すとロビーでなく、Subway風のサンドウィッチレストランに出た。?あれ?ドアを閉め、今度は「G」を押してみる。そしたらロビーに着いた。
香港では「1」は日本の2階を指し、日本の1階は香港では「G」Ground Hallの意味であるこの記号の階にあたる。これを初めのうちはしょっちゅう間違えてばかりいた。
この表記はイギリス式のものだとのこと。

狭いロビーでルームキーを預けようと、ホテルマンが来るのを待っているとき、背後に香港内のツアーのパンフを立てかけている後ろに別のホテルマン(じゃないのかもしれない)が座ってニコニコとこっちを見ていた。2階建てのバスで巡る香港のツアーらしきものを紹介しているようだった。今思えば、効率よく「はとバス」みたいなもので主要箇所を巡ってしまうこともありだと思うが、当時は全ての乗り物は自分で乗り切り、滞在時間も自分で律するのだという想いが強く、それを利用することはなかった。『利用するつもりはないよ』と片手を顔の前に持ってきて頭を垂れてジェスチャーで伝えた。向こうも『いいよ』という感じでしきりに頷いていた。


彌敦道は、港方面の尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)から佐敦(Jordan、ジョーダン)、油麻地 (Yau Ma Tei、ヤオ・マ・テイ)、旺角(Mong Kok、モンコック)、太子(Prince Edward)と続いており、真下にはそこまで導いてくれる地下鉄が走っているのだが、旺角(Mong Kok、モンコック)くらいまでは旅の最中、何度も何度も歩いて往来した。

着いたばかりの足で、油麻地の西側の「廟街」別名男人街(ナンニンガイ)、テンプル・ストリート呼ばれる毎晩開かれる屋台通りに行ってみようと試みる。後は重慶大厦(チョンキンマンション、じゅうけいたいか)という有名なバックパッカーの安宿(泊まる心算はないけど。。。)が集まっているという場所がどの程度のものかを見ておく心算だった。後は換金レートがどの程度違うのかという辺り。

重慶大厦はすぐに出てきた。帝国酒家の並びにあったのだが、通りの東側を歩いているとビルの名前が見れない。初めに出くわした両替屋さんのレートの看板でJPN→HKDを確認したのが重慶大厦の両替屋さんだったのだ。次から次へと見て周った両替屋、重慶大厦のレートを越えるところはついに現れなかった。

九龍公園が通りに西側の一段高い場所に木々が生い茂っていることから分かった。公園は少し階段を登ったところに広がっているようだ。
公園の一段低い通りに面した場所にはブティックが綺麗に並んでいた。公園の緑の下に並ぶ綺麗な店舗。確かに高級そうに見える佇まいだった。
通りの東側を佐敦(ジョーダン)の辺りまで来たときにマクドナルドが見えてきた!!
いきなりかい!というより香港の食事一発目をあろうことかマクドナルドに絞った。

『I need this oneを覚えたよ』

言葉の通じなさ、注文方法を体得し、『飢えないように』生きていくためにまずはファーストフードに行ってみることにしたのだ。

ちょうど列の前は外人が注文している。ドキドキしながら聞き耳を立てていたら、
「I need this one」(これ一つ下さい)と指差しでメニューを突いているのを確認した。
『おぉ、これでいいんか?』と納得した。自分の番が周ってくる。完全に舞い上がっている顔の私をみて店員の男の子は流暢な英語で話しかけてきた。多分『何にしますか?』と
聞いているのだと思い、「I need this one」と同じジェスチャーで指差しをした。
seeと応じたのを見届けてホッとしていると、また何か云っている・・・・!『さっきの外人にも何か云っていたのか?そうか納得している間に何かやり取りがあったんだな!』
とpardonと言い直しをお願いすると、「stay here or take out?」(店内ですか?お持ち帰りですか?)と聞いていただけだった。。。あんたら発音が良すぎるわい!

ポテトには必ずケチャップが付いてきて、それを塗りたくって頬張り、アイスコーヒーをすすりながらガイドブックを開けて廟街の位置を大きい地図と詳細な地図とで見比べていた。隣駅(佐敦)までがここまで近いとなるとその隣の油麻地もさらに近いぞと体感する。店を出て、通りを西側に渡り、沢山のお店の軒先を眺めていく。日本のどこかに似ているかと聞かれれば、、、、いやないですね。。。アーケードも有ったりするのでなんとなくどこかの街に似ている気もするけど、敢えて挙げるなら、大阪梅田や道頓堀?いやそれよりも密集の度合いが違うような気がする。

『廟街に圧倒される』

油麻地の辺りに近付き、チラチラと横を見るともうそこには通りにテントを出した歩行者天国のような街が広がっていた。これから毎晩通うことになる屋台テントの行列が延々と続く通りに立ち向かった。曲がった場所はまだそれほどの熱気を持っていない、何の気なしに夜まで開けていたと思われる店の中は子供とお年寄りがいて、ジュースを売っている程度だった。ぼんやりと灯る蛍光灯の明かりは少しまだ寂しいくらいだったが、その先には眩い電球(イカ釣り漁船みたい!)のテント街が広がっていた。

通りを曲がって、その先が見渡せないテントの山が道路の真ん中に左右2軒ずつ並び、
その端側にも店があって、その端のテントの向こうにも通りに面したお店があるという多重構造で通りを一遍一番奥に行って反対側のテントを見ようと折り返してきても見尽くすことができないのではないか?と思いたくなるくらいの店が並んでいたのだ。

食事を摂ることもできそうだが、ルールがまるで分からない。
途中に廟が出てきたのだが、文武なのか関羽のものだったかどうかなどまるで覚えていない。途中でキャラクターとともに小丸子という文字で書かれたちびまるこちゃんやドラえもんという文字を漢字で書いたTシャツを売っているお店があり、そこが一つの目印にはなったのだが、人の波と店の波に圧倒されていく。食材もアクセサリーも様々なものが売り買いされているのだが、欲しいものが分からない。まだ買い物が怖い状態だった。
多分イギリスの植民地だった場所なのである程度の人は英語を話すのだろうとは思っていたのだが、まだ様子が良く分からない。

今これを書いていて思い出すのは、香港の匂いだ。
街には匂いがあり、それは強烈に思い出す。
匂いを嗅げば、あぁと思い出す。

今の職場にも初めて来たときに思った匂いがあり、前の職場にもあったと思う。
鼻がそれほどいいわけではないが、匂いの記憶は多分一番覚えている記憶なのだろうと思うのだ。

『ホテルに帰る』

尖沙咀に戻り、ホテルの周辺を何遍か回り、コンビニで飲み物を買い込んでホテルに戻った。コンビニでは細かい硬貨までの値段設定とそれに忠実にお釣りを返す商習慣がある。他ではこんな細かい硬貨は使えそうにない。言葉を交わさずに買い物ができるのかという安堵もあったが、そればかりではつまらないとも思えた。

「エロ本」という変な看板も見付けた。日本語を見つけると少し安心するものだ。

翌日に再会するための姉妹との約束の電話をし、夜まで過ごすための計画をガイドブックを見ながら考える。
今もそうなのか分からないが、リコンファームという帰りの飛行機に搭乗することを確認する電話と翌々日には移らなければならない宿を探すことが、翌日のミッションでもあったのだ。



~つづく~
※これは1998年のことを書いた記事です。勘違いされませんように!
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男一匹一人旅の記録 1998年 11月 香港 ガイドブックは「地球の歩き方」

2011-09-06 04:44:25 | 懐かしい思い出
随分と前の記憶で、どこまで思い出せるか分からないですけど、書いてみようと思っています。

実は中村さんのブログにコメントを入れさせていただいたところ、「私のミシュラン・ガイドの使い方」なる記事でお答えを頂きまして、、、
※テレビのコメントの件は決して中村さんの意見に対してあるのではなく、最近のテレビの過剰演出を牽制する意味のコメントでして・・・・なんて言い訳ばかりではよくないので、、、、

私も自分の海外初挑戦の記憶と共に、自分の旅のことを書いておこうと思い立ってこれを書いています。実は当時は「地球の歩き方」をバイブルのようにして使っていました。他のトラベル指南書も存在したのですが、見易いページ配置と写真、巻末に経済・言語や通貨レート、行事カレンダーなども付いていたと記憶しています。(すいません、今手元には地球の歩き方は1冊も残っていません。)


私はといえば、30歳になるまで飛行機に乗ったこともなければ、海外にも行ったことがないという体たらくでして。。。
バブル期の大学卒業の癖に、当時は乗り物に乗ると「腹が痛い」とか言い出すパニック症候群チックな男子で、海外には一切出ず、結局各駅停車の東海道で静岡に駿府城の城跡を見に行ったのが、卒業旅行でございました。

そんなこんなで社会人になり、30歳という節目に旅行先を海外にしてみようと思い立って、色々な準備と挑戦項目を決めて、香港に旅行に行ったことがありました。

思い起こせばもう13年前にもなる。。。。のでございます。。。



『準備期間中のこと。』

どこに行こうかというのは日本からどれくらい離れてみるか?ということに近い。
なるべく近距離で楽しそうなところと思い、その前の年に中国に返還されて話題になった香港が今どうなっているのかを観に行ってみようと思った次第だ。
返還前の香港には随分と旅行客が流れ込んだと聞いたので、今は逆にホットでもなんでもない状況だ。それはそれで誰も注視していないということになる。

「たまたま香港に住む友人が日本に来ている」という会社の同期がいたので、その同期に彼女達を紹介してもらうことが出来た。
彼女らは姉妹で、流暢に英語を話し、自分の友達もペラペラと英語を話すのでかなり気後れしたのを覚えている。
どういう場所に行ったらいいか?とか、この時期(11月)どんな服装で行ったらいいか?とかをみんなに聞いてもらった。

「なんで香港なんだ」と聞かれたので、なんとなく深夜特急という小説でデリー(ニューデリー?)に行く前に、一番初めに沢木耕太郎が訪れたとても記憶に残る場所、(香港と澳門(マカオ)の両方)だということを伝えた。

そういえば、香港から日本の観光ガイドブックを彼女達は持ってきていた。おそらくミシュランのGreen Bookと思われる。船で九州に上陸したという彼女達は、そのまま九州観光をし、京都などを巡って東京に来ているとのことだった。見せてもらったガイドブックには大分や滋賀の名所が出ていたのだが、日本人の私達全員が、その名所のことを知らなかった。
彼女らは、この本にここがいいと出ていたから行ったのだと云っていたが、本人達が満足すればいいだけのことであって、それがガイドブックによって齎されたものだったとしても、満足できたかどうか、その尺度のみが重要なのであるような気がする。
ガイドブックに載っていた場所に行ったのだということもその満足を支える重要なポイントだったのだろうと、今では思う。
ただ、その時は日本人さえもが認知していない「観光名所だと書かれた場所に行ってしまった彼女達」を少し哀れんでいたような気がする。今でも海外に観光客の誘致を懸命に営業している観光地があることは想像できる。当地で有名な観光地と外国では有名な観光地が同国内で違うことも十二分に有り得る話ではあるのだ。


英語も広東語も話せない自分ではあったのだが、向こうでの再会を期して、自分が幼少(小学校高学年)の時に観に行った「Mr.BOO インベーダー作戦」のテーマソングを披露した。私は香港の曲が唄えると豪語して店の中で軽く歌い始めた。
サントラを持っていて、歌詞をカタカナでほとんど記憶するまで唄いこんだことがあるので、うろ覚えながらもその場でみんなの前で歌ってみせたのだ。
そしたら、彼女らが「歌詞の意味分かってるの?」と聞いてきた。もちろん「何にも分からない」と答えたら、腹を抱えて笑いまくっている。

賣身契 / Mr.Boo!インベーダー作戦 THE CONTRACT 賣身契


まぁいざとなればこれを唄って人に助けでも求めるかと決めていた。歌詞の意味は分からないが、人は変な曲を歌う人間がいると注視してくれることにはなるだろうとの期待だけはあった。

また、現地に勤めている会社の販売会社があったのと、大学時代のサークルの友達が私とは別の会社で香港に赴任しているので、そこいらの香港に纏わる電話番号やら住所やらを「地球の歩き方」の各所に書き込んで準備しておいた。

実家に電話をして香港に行くことを伝えると、「ちょうど新しい家を建てるので、床の間に飾る花の描かれた掛け軸を一本探して来て」とのミッションをもらった。



『出発の時のこと。』

行きと帰りの航空チケットと2泊分のホテルを押さえての出発だ。(7泊8日だった)
海外そのものが初めてで一人ということで、遅れないように慎重にというか、とてつもない前倒しが行われた。中華航空の羽田発→台北でトランジット→香港という珍しいチケットで行くことになった。余り日本-香港の距離でトランジットってのはいなそうだと思った。余った滓(カス)のようなチケットを繋ぎ合わせて販売していたのだろう。

今は知らないが、当時の中華航空の発着する場所は羽田の中でも少し離れていて、中華料理を出す売店の他はあまり見るものもなく、ノートにペンを走らせて一人で興奮していたと思う。当時「写るんです、ハイ」という商品が売れていて、それを大量に持たしてくれた友達がいた。もちろん簡易的なフィルムカメラは持っていたのだが、フィルムも誰かがくれたのを覚えている。

チェックインの時、実は運動部の人が持つようなものよりもさらに薄手のバックを一つと、小さなリュックを持っていたのだが、そのバックの方を預けてみた。スーツケースというものをそれまで持っていなかった。その程度の荷物ならば全て機内に持ち込むべきで、当時そんな程度の荷物しか持つことがないのか?と今では訝しくもあるが、着替えと本とお財布とカメラレベルで後は現地調達ということで旅立った気がする。

また、預けた荷物がなくなるとか、他の国に行っちゃうとかいうトラブルを聞いていたが着替えくらいしか入れていないバック。いざとなれば現地で服くらい買えるだろうと腹を括った。


『飛行機のこと。羽田-台北』

台北でのトランジットということもそうだった(行きも帰りも)のだが、飛行機にはハワイ方面からの乗客が乗り込んだまま、もしくはトランジット待機の人が大半だったと思う。羽田のロビーでは見なかった人達で機内は溢れかえっていた。
私は窓側の席を頼んだ。電車と同じように車窓を楽しむものだと思ったからだ。
3人掛けの椅子の奥に私、その隣にはビッグな体型のカップルが座った。

飛び立つ時、窓からこちらに向かって手を振る整備士の人たちが見えて、懸命にこっちも振ってみた。何故だか下手したら戻ってこれないとか事故に遭うとかいうのを堪えていたのかも知れない。彼らに手を振りながら涙が零れた。

羽田から南西に向かうはずの飛行機は、風の関係か何かでどうも真東を向いて飛び出した。今でも飛行機がエンジンの唸りを上げて滑走路の端に構えてガタガタガタと動き出すのを物凄い心拍数を伴う緊張感で迎える。毎日とか毎週とか、少なくとも毎月とか乗っているのであれば、そのうち寝て迎えることもできるのかもしれないが、いまだにこれには慣れというものが来ない。
上空に上がったかと思うと自分の座った窓の方に大きく傾いて旋回を始めた。真下に海と船が見えた。正直やばいのかとさえ思ったものだ。周囲がどの程度の動揺をもって事態を把握しているのかが、初体験の自分にはバロメータだった気がするが、周りは動揺しているような印象はまるでなく、少し拍子抜けしたかと思う。


安定飛行に移ると、雲が下に見え、気分がよくなった。
下に富士山が見えたとき、隣の外人に「あれがMt.Fujiだよ。綺麗でしょ?」と何度云おうかと迷っていたのだが、そのうち、「シールドを落として暗くしろ!」というのをジェスチャーで訴えられ、『飛行機では窓側なんかに座るもんじゃないんだな。』と理解し始めた。

機内食では、『海老にしますか?豚肉にしますか?』と英語で聞いて周っていた。シュリンプでお願いしますと頼んだ。

熱々のパッキングされた機内食と記憶している。あとミックスナッツのようなものが入っている袋を手渡された。お酒には当時それほどの価値観を見出せていない時分だったので、いらないというジェスチャーで断った。今だったら車の運転しないなら是非とも呑んでおこうとなってしまうはずである。

食事が終わると映画の時間なのだが、他のチャンネルの音に合わせて音楽を聴いていた。
隣の二人はトランプでソリティアを始めだした。

パソコンでは何度もやったことのあるそのゲームを実際のカードを使ってやっているのを初めて見た。(というか、自分の人生の中でいまだにその人たちだけしか見たことない。)ただ、トランプの一人遊びって色々有ったけど思い出せないなぁ。。。

前方に据えられた大型のモニター画面には飛び立った空港(日本・東京)の現地時間と到着する空港(香港)の現時間、いわゆる時差が表示され、高度がフィートとメートルで表記された。たまに窓を開けて雲海や下の地表やら海面を見たのだが、大半は雲海に覆われていて下の海面もしくは陸地と思しき(おぼしき)ものを見れたのはわずかだった。

もうすぐ台北に着くというアナウンスと共に、ベルトを再度締めて着陸を待った。一斉にどの窓もシールドが上げられ、みんなが窓から景色を見始めた。
この時には下にある街や車がよく見えた。

自分自身が上空から降下してくる大きな物体の中にいて、眼窩の人達から見上げられるあの飛行機に乗っているのだと思いもするが、下の世界では飛行機を無視して営みを続けているように感じられた。当然のことだと思う。誰しもが通り行く電車に手を振る子供のようにあるわけもなく、また墜落までもを考えていたり、空港の周りをビクビクしながら生活しているわけがなかった。1日に数機しか到着しないわけではないのだ。相手は国際空港なのである。


いわゆる自意識過剰というものにも近い感覚だったのだろう。
一人旅は、いつまでも脳内の自分との会話、いわゆる壮大な独り言の中にあるのだとの感覚が芽生えていった。


~つづく~
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1976年のアントニオ猪木

2011-09-02 00:12:46 | プチ萌え
この前の夏休み、実家に帰って同じ友達に二度会った。
母親を亡くして実家に戻ったという彼は昔と同じように「店を持ちたい」と云っていた。

昔は海の傍、できれば鎌倉辺りで喫茶店をしたいと云っていたのだが、今度はVILLAGE VANGURDのような雑貨店が持ちたいとのことだった。
もちろん、夢である。

旅行から帰り実家に戻ったので連絡を取ってみると、ちょうど仕事も一段落したので、VILLAGE VANGUARDと同じような雑貨店を視察がてらに見に行きたいというので付き合うことにした。

同じような店はちょっと小田原方面にはなく、VILLAGE VANGUARDそのものはあるものの、その匂いに似たものを探すのは容易ではなかった。また市内にあるそれも川崎にあるものと同じように店の発する熱のようなものはなかった。照明や並べる品物の物量やセンスによって、同じチェーン店でも物の見事に好き嫌いが出てしまうのが、VILLAGE VANGUARDだ。

国道255線の酒匂川を小田原方面に渡り、井細田方面へ左に湾曲した辺りを越えたところに、雑貨を扱うような古書店があったと思うというおぼろげな記憶を頼りにその場所に行ってみることにした。

そこには新刊本なのか古本なのか区別の付かないような綺麗な陳列の本やDVD、雑貨が混じる面白いお店があった。(店名は覚えてません)。店内を歩き回ってすぐに綺麗な古本と面白い配列が気に入っていた。

最近めっきり虜になっている、山本兼一氏の本を探したりしていたのだが、いきなり「これ読んでみっ!」と表題の本、1976年のアントニオ猪木という本を手渡された。
元の値段は1,800円、売値は180円という1/10の破格値だというのだ。


1976年、当時8歳だった私は、確かにアントニオ猪木を格闘家の頂点だと思っていた。
力道山の時代を知らない私は、猪木・馬場の黄金時代を過ごしてきた。(若干馬場より鶴田より)

ただ、プロレスは分派し、リアルファイトと思しきK−1やPRIDEのような凄惨な試合を生んでいく道だけを求道するに到るので、ある時点から先は辛い思いで見ていたこともあったと思う。

プロレスには過程があり、そのドラマが”出来れば”自分の思った通りの結末を迎えて欲しい願望の現われでもあった。反則を繰り返す悪者(ヒール)は、正統な力を正しく有する者(ベビーフェイス)に屈服させられる。もちろん、ある時は信じられないような結末が用意され、その鬱積が次戦への期待として繋がっていく。そして今までには見たこともない華麗であったり、衝撃的だったり、圧倒的な力が圧し掛かる常人では決して耐えられそうにない技を見せ付けられているうちに、全ての試合のうちの全てが単純なドラマ仕立てではなかったとも思いたかったし、空気に支配されて導かれる流れがあったとも信じたかったと思う。

場外では1・2の三四郎で強烈に強靭で実戦的な力を求める者たちを、三四郎やその仲間達というシンボルを用いてプロレスが描かれ、それを何度も読み返しながら繰り返し繰り返し刷り込んできた人間なので、単純なプロレスの暴露本は勘弁して欲しかった。
力はそれを圧倒的ではなくチラつかせるというレベルで魅せてきたのがプロレスだったからだ。それは確かに全てが全力ではないということは承知もしていた。
「いんちき」という言葉で唾棄されるプロレスにも、夢があった時代に生きた者はその真実との直面を避けたがる。
この本に書かれていることは正直辛い内容ではある。ただ、その裏舞台と様々な想いを持って到る進路は全てがリアルであったことをこの本は伝えたいのではないかと思う。

今はまだモハメド・アリ戦の前までの部分なので、オリンピック柔道2階級制覇のウィリエム・ルスカの章は辛い内容ではあった。プロレスラーの素質(技を見せ合い、やり取りを交し合う技術)を猪木との対戦によって、”有る”と誤解したルスカの噛み合わないプロレス人生の話とそれ以前の生活と苦悶が書かれている。今読んでいる部分はアリ、カシアス・クレイのプロレスとの接点。その興行を世間から注目させるための発言をプロレスに学んだという内容の部分を読んでいる。

出来れば1980年のウィリー・ウィリアムとの対戦までを網羅して欲しいが。。。。1976年の限定物なので。。。どこまで書かれているのだろう?
アントニオ猪木に迫り、力道山から分派していく馬場と猪木の事情には、1・2の三四郎で描かれていた背景が、当の裏舞台の歴史が薄っすらと覆っていたことを気付かせてくれた。

--------------------ここまでがモハメド・アリ戦を読む前の感想------------

そして、リアル・ファイトを重ねていく猪木が1976年だったというのがこの話の頂点になる。ここから先は猪木は異常な執念で称号を欲しがっていたというのである。それは環境に左右されて導かれたものだという。
モハメド・アリ戦は、猪木が仕掛けた騙し討ちのリアル・ファイトだと語っている。
アリが急に真顔で「猪木を再起不能に陥らせてしまうかもしれない。この試合は止したほうがいい。」との会見を開こうが、猪木は正真正銘の王者への挑戦として、リハーサルを行わないリアル・ファイトを仕掛けた。アリも仕方がないものの、逃げることは出来ないし、逃げるのも嫌だと果敢にリアル・ファイトに立ち上がった。

最終的に妥結されたルールが、実は絶妙にボクサーには立って殴り倒せ、レスラーには引きずり倒して、関節を極めてしまえという単純で明快な方針を打ち立てた。
しかし、そこにはパンチから逃れるためにスライディングと仰向けのポーズからキックを繰り出し続ける猪木と、グランドには持ち込まれないように、また持ち込まれてもブレイクに逃げられるようにロープ際しか動かないアリという真剣勝負が齎す当然の結果が待ち受けていた。

この試合を酷評する世間に絶望を感じた猪木を、アリのバンテージに石膏を注入したという作り話に、それなら俺もシューズに鉄板を入れてやろうと思ったが止めたという偽善を振り撒く愚かなアスリートとして描かれ、猪木の強さを認め、実際に乱打されて腫れ上がったふくらはぎのために入院して治療を受ける真摯なスポーツマンのアリという構図で締め括られてしまった。

上記のアリの拳に石膏注入、で猪木は足に鉄板、でもやめたというエピソードは私も猪木自身が語っているのを聞いたことがあるのだが、苦し紛れの虚言癖に近い内容だということに溜め息がもれた。

この著者は猪木を破壊してしまった。

ある時期の猪木は強かったが、モハメド・アリとの試合を境にいきなりプロレスをしなくなるというプライドの塊りのようなものに覆われてしまって、興行主を怒らせる困ったファイターになってしまったと書いている。いきなり世界一のモハメド・アリと渡り合った猪木はテレビの前では負けられなくなり、星のやり取りを融通し、地元のレスラーに花を持たせるプロレスという興行には相応しくない存在になってしまったと。。。
パキスタンでのアクレム・ペールワン戦では、逆にモハメド・アリと引き分けはしたが、結局は逃げ回る臆病者と判じられた猪木に勝って、モハメド・アリを信奉する国民と世界の支持を得ようとアクラム側に画策されて、試合直前にリアル・ファイトだと宣言されてしまう様子が書かれている。しかも猪木は逆にその相手を見切り、ギブ・アップしない相手の腕を圧し折ってしまう。。。

終焉は支離滅裂な破天荒経営者の猪木がそこにいる。事業の穴埋めが尋常でなくなり、ほとんど借金のために限りなく不安定になる行動を指しているようだ。


どこまでの真実がここにあるのかは分からない。まぁそうなんだろうなと思うことも合点がいくことも多いが、どこかに真実とかいうものを横に置いて、あの頃のプロレスを語る。強さの序列を真剣に談義するような。。。そんなことがまた起きないものかという期待がある。


大学時代の友人は”馬場考”というサークルを創設していた。「馬場を考える会」の略だという。馬場のリアルな強さを私は実は余りよく知らない。当時の馬場考の仲間は猪木と闘ったビル・ロビンソンを、その猪木よりも早い時間で仕留めた馬場の方が上だと私に云っていた。この本にもその話は登場する。
この本の中で馬場は猪木の突出に恐れをもち、あらゆる手段で猪木を貶めようとした策士の一面とアメリカで大人気でスターだったと書かれているが、NWAへの拘りや猪木に対する圧力を含めてジャイアント馬場を私はよく知らなかった。


この本を紹介してくれた友達は「大山倍達(茂?)と梶原一騎はウィリー・ウィリアムスに猪木を殺させようとしたんだぜ。」と教えてくれた。

今は鬼の木村こと、木村政彦の生涯が気になって仕方がない。他の格闘家も。。。


フェイクだというものの中にもリアルは混じる。リアルなものの中にも想いが交じる。さらにその中にも事情を含む人生も雑じっているというだけの真実がひとかけら。。。。
そんな本なのかなとも思うわけです。。。
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