最近、スマホのカレンダーにfacebookの友達という繋がっている人々の誕生日が同期してたりとか、そもそもSNSの情報から「今日は○○さんの誕生日です。○○さんのタイムラインにお祝いを書き込みましょう」というお知らせまでくる。
うううんん。
俺にとって、他人の誕生日ほど意味のないものはない。
よく知っている友人同士ならまだしも。
会社の先輩やずーっと下の後輩の誕生日に興味も意味も見い出せない。
学生時代の友人や家族とは違うので、そういう部分はかなりドライだ。
人間そのもの、人間性ってものには、まだ興味がある部分があるが、それこそ誕生日から星座を割り出して、ステレオタイプに括るほどのレベルで活用する程度の情報だ。
それよりどの球団が好きとか、「嫌いという感覚で」ある球団を見るタイプかどうかって方がよっぽど知りたい情報である。(私はアンチという考え方そのものが不健全で嫌だという考えに立っているんだけど)
失礼だが、今日は誰々さんの誕生日ですというのは、目出度いと思えるような情報ではまるでない。
しかもしつこいと思えるほどの情報量だ。
SNSの一番嫌な部分がこれにそって、おめでとう!とかいう投稿を見ること自体だ。
自分がしないし、目出度いと思わないのでそれこそ出来ない類のことがそこかしこで「そそのかされるように」起きている状態を見ることが辛い。
嬉しいのだろうとは思う。思いはしてもそれに目出度さを添えるに相応しい関係とその人にとっての人物ってものはいるのだ。私はその人にとって突如SNSでつながっただけであり、そんな存在ではあるなどとはおこがましくて云えない。
そんなにその人の誕生日のことを目出度いと思えるような付き合いなんだっけ?と思わずにはいられない。
逆に今日ですよね?と来られるのも実は苦手だ。嬉しくない訳ではないが、上記の思考過程を辿って、「そういうことを言い合うような仲でしたっけ?」と思ってしまうのだ。なのでそっとその人の投稿にいいね!と押してその場から立ち去るようにしている。
実に不様で失礼な体質に育ってしまったものだと自分を恥じ入るしかない。
誕生日…申込書やらなんやらを書く際にはもちろん意識もするし、平成になって何年も経つので、昔は昭和○○年というものだけを覚えていたはずだが、西暦でも普通に書けるようには成長した。逆に息子の平成○○年っていうのが即座に分からなかったりするというダメ親父っぷりだが…。
だからなんだ!自分は早生まれでもなければ何でもない。小学校の創立記念日だったり、有名人では誰と一緒という情報だったりなどは自分だけに有益な情報ということで覚えているものの、他人から聞かされても大して頷けないお話だなぁとしか思えないでしょ?
えっ違う?
福山雅治とおんなじ誕生日って男性が自慢気にその情報を私に伝えてきたところで、『大分違いますね』と心で呟く以外に所作がないと思うのだが…。
今日は何の日?昔の彼女の誕生日。
これくらいなら覚えている意味も思い出も理解する。
アラブやベルギーのfacebook上の友人にそれはない。覚えてもいなければ知ろうとしたこともない情報が向こうから親切にもやってくる。
必要だと思っているんだろうなぁ。
外人に血液型と星座を聞くと、「宗教か何かですか?」と思われるという話はどこかで聞いたことがあるが、日本人にとっては「出身地や親の職業を聞く」以上に重要な情報だ。というか当たり障りのない会話のきっかけなだけな話なのだろう。
その一つが、星座からくる誕生日への連鎖質問だが、しておいて失礼だが覚えようなどとはまるで思っていない。
「血液型って何型?当てていい?O型!」
「へぇ~AB型!?AB型ってどんな特徴があるんだっけ?」
「あぁ二重人格、あれって本当?」
「星座は蟹?」
「じゃあ7月?」
「あぁ6月の蟹か。じゃあ月末だね?27日?違う、えっじゃあ何日?もうちょっと前だったら双子座のAB型かぁ。ABの双子ってなんかもうすごい感じだね!私は二人いますって感じくらいにね!」
ほとんど詰将棋並みに会話が作れてしまう。
最終的に聞き出してしまった誕生日は、そのまま私の海馬には留まらずに、遥か百万光年の彼方に飛んでいってしまうのである。
(「双子のABではない人」という、されたとしてもどうも間違った形で記憶されることだろう)
あぁこんなことで記事書いてて、何の意味があるのだろう。
それよりもあまちゃんの「地元に帰ろう」の歌詞にはこういう意味とドラマのこの場面に繋がるように仕組まれていた!とかの情報の方が百万倍楽しいだろう。
ごめんなさい、そんな情報や気付きはありません。あってもそんなものは皆さん知ってるよ!ってレベルのものでしかありません。
取り敢えず云っておきますわ。なんか恨み買うのも嫌なんで。当たり障りのない感じで!
世界の皆様にこの1年、毎日この言葉を贈ります。
いつかは当たる日もあるだろうってことで。
うううんん。
俺にとって、他人の誕生日ほど意味のないものはない。
よく知っている友人同士ならまだしも。
会社の先輩やずーっと下の後輩の誕生日に興味も意味も見い出せない。
学生時代の友人や家族とは違うので、そういう部分はかなりドライだ。
人間そのもの、人間性ってものには、まだ興味がある部分があるが、それこそ誕生日から星座を割り出して、ステレオタイプに括るほどのレベルで活用する程度の情報だ。
それよりどの球団が好きとか、「嫌いという感覚で」ある球団を見るタイプかどうかって方がよっぽど知りたい情報である。(私はアンチという考え方そのものが不健全で嫌だという考えに立っているんだけど)
失礼だが、今日は誰々さんの誕生日ですというのは、目出度いと思えるような情報ではまるでない。
しかもしつこいと思えるほどの情報量だ。
SNSの一番嫌な部分がこれにそって、おめでとう!とかいう投稿を見ること自体だ。
自分がしないし、目出度いと思わないのでそれこそ出来ない類のことがそこかしこで「そそのかされるように」起きている状態を見ることが辛い。
嬉しいのだろうとは思う。思いはしてもそれに目出度さを添えるに相応しい関係とその人にとっての人物ってものはいるのだ。私はその人にとって突如SNSでつながっただけであり、そんな存在ではあるなどとはおこがましくて云えない。
そんなにその人の誕生日のことを目出度いと思えるような付き合いなんだっけ?と思わずにはいられない。
逆に今日ですよね?と来られるのも実は苦手だ。嬉しくない訳ではないが、上記の思考過程を辿って、「そういうことを言い合うような仲でしたっけ?」と思ってしまうのだ。なのでそっとその人の投稿にいいね!と押してその場から立ち去るようにしている。
実に不様で失礼な体質に育ってしまったものだと自分を恥じ入るしかない。
誕生日…申込書やらなんやらを書く際にはもちろん意識もするし、平成になって何年も経つので、昔は昭和○○年というものだけを覚えていたはずだが、西暦でも普通に書けるようには成長した。逆に息子の平成○○年っていうのが即座に分からなかったりするというダメ親父っぷりだが…。
だからなんだ!自分は早生まれでもなければ何でもない。小学校の創立記念日だったり、有名人では誰と一緒という情報だったりなどは自分だけに有益な情報ということで覚えているものの、他人から聞かされても大して頷けないお話だなぁとしか思えないでしょ?
えっ違う?
福山雅治とおんなじ誕生日って男性が自慢気にその情報を私に伝えてきたところで、『大分違いますね』と心で呟く以外に所作がないと思うのだが…。
今日は何の日?昔の彼女の誕生日。
これくらいなら覚えている意味も思い出も理解する。
アラブやベルギーのfacebook上の友人にそれはない。覚えてもいなければ知ろうとしたこともない情報が向こうから親切にもやってくる。
必要だと思っているんだろうなぁ。
外人に血液型と星座を聞くと、「宗教か何かですか?」と思われるという話はどこかで聞いたことがあるが、日本人にとっては「出身地や親の職業を聞く」以上に重要な情報だ。というか当たり障りのない会話のきっかけなだけな話なのだろう。
その一つが、星座からくる誕生日への連鎖質問だが、しておいて失礼だが覚えようなどとはまるで思っていない。
「血液型って何型?当てていい?O型!」
「へぇ~AB型!?AB型ってどんな特徴があるんだっけ?」
「あぁ二重人格、あれって本当?」
「星座は蟹?」
「じゃあ7月?」
「あぁ6月の蟹か。じゃあ月末だね?27日?違う、えっじゃあ何日?もうちょっと前だったら双子座のAB型かぁ。ABの双子ってなんかもうすごい感じだね!私は二人いますって感じくらいにね!」
ほとんど詰将棋並みに会話が作れてしまう。
最終的に聞き出してしまった誕生日は、そのまま私の海馬には留まらずに、遥か百万光年の彼方に飛んでいってしまうのである。
(「双子のABではない人」という、されたとしてもどうも間違った形で記憶されることだろう)
あぁこんなことで記事書いてて、何の意味があるのだろう。
それよりもあまちゃんの「地元に帰ろう」の歌詞にはこういう意味とドラマのこの場面に繋がるように仕組まれていた!とかの情報の方が百万倍楽しいだろう。
ごめんなさい、そんな情報や気付きはありません。あってもそんなものは皆さん知ってるよ!ってレベルのものでしかありません。
取り敢えず云っておきますわ。なんか恨み買うのも嫌なんで。当たり障りのない感じで!
世界の皆様にこの1年、毎日この言葉を贈ります。
いつかは当たる日もあるだろうってことで。