萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

備前玉!

2014-03-23 19:04:01 | Weblog
上府中公園、小田原郊外、小田原球場(新)の脇で、全国大陶器市が開かれていた。

昨日、実家に行く用事があったついでに寄ってみた。以前は小田原城の麓二の丸広場で行われていた全国の窯元を呼んで行われた、楽市楽座を期待したのだが、あいにくそうではなかった。以前のイベントでは先輩が来ていたので、軒先で売り子のようなことも体験させてもらった。

ちょうど読んでる小説の場所に近い、萩焼、以前よく探してた九谷焼、その先輩が窯をやっている益子焼も来ているようだが、見当たらない。

どれもこれも特売の椀やら箸、皿が大きく取り上げられているような店構えは、まるで商店と変わらぬ雰囲気。
販売店さんが来ているのであって、窯元や作家さんではなさそうであった。

まぁ
その中に、ちょっと燻し色の濃い猪口を並べている店があったので、入ってみた。

備前焼、店番の妙齢のご婦人から色々と話を聞いてみると、伊部(いんべ)という赤穂線の駅の周辺に窯元、作家、販売店が密集しているという話だった。今度青春18切符で、、、。もう歳なんだか時間を惜しんで新幹線で行ってみる?という感慨を持った。


桐箱入りの猪口を一つ買ったのだが、その間30分ばかり話したり、眺めたりしていた。

そうすると、店先に置かれている小石に皆が群がっている。
なんだろ?と思ったら、「備前玉」というものだそうで、ポットに入れておくとお湯が円やかになるとか。
いいじゃん。メダカを飼っているという女性が、以前水槽に入れたら、水が澱まなかったそうだ。
割れてもそのまま使い続けてくださいと店員の方が仰っていた。効能は落ちないと。

ただ、その形状は水切りをするときの小石のように平べったくて丸いタイプ。真ん丸の球形ではありませんでした。


猪口を買うとまけてくれるというので、そのお金で備前玉をいくつか購入してみた。

気の持ちようなのだろうけど、さっそく家内が湯沸しポットに入れてみた。

ごはんを炊くときに釜に入れておいてもいいらしい。
水がアルカリ性になるとかいうことはないとは思うのだが、、、、どういう作用なのだが、その理屈が分からない。

猪口より俄然備前玉に興味津々になってしまったのだ。
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囲碁ってなんだろ?

2014-03-21 04:46:12 | 日々の疑問
親父とじっくりと話す機会が増えた。
親から手ほどきを受けたことがあって辛うじてルールくらいが分かるのが将棋。それさえもヘボ中のヘボ。
テレビの将棋とかどうしてそう打つのか全く分からない類の人間に碁の話をしてくる。

祖父からして囲碁が好きだったそうだが、そのルールと仕組みが将棋以上に分かりにくいし、教わったこともない。

自分が子供の頃から、親が寝床で雑誌を読んでは懸賞に応募している様を見ていたのだが、白と黒の並びにどういう意味があるのかすら分からない。

読んでみろと見せられた本をちょっと覗いてみたのだが、やはり意味も分からない。

そこで、読んだこともないのだが、「ヒカルの碁」という漫画の入門書が図書館にあったので、借りてみることにした。

陣地の取り合いが交互に行われる中で、詰むという意味と弱い強いという部分が今やっと分かってきた。
それでも危ういものだが、よくある「次の一手」というお題に正解が存在するということが理解できるようになった。(お粗末)
石を置く場所など無数にある中で、それでもその次に相手が打ってくる(と思われる)場所にどのように並べて守ると守りきれるのかという構想そのものなんだろうと思う。

意味も分からずにコンピュータと対戦し、知らないうちにありゃりゃということの体験があったにはあったが、どうしてそうなったのかが当時はまるで分からなかった。

先を読むということの構想力そのものが試されているのだろうが、この歳からどこまで理解出来るか分からないが、
時間があれば、入門書の類を読んでみようと思う。

まだそのレベルでいい。それでも基本はあり、規律はあり、志向する(陣地を多くせしめる)動きがあり、定石があり、、、、、
その上に飛躍があり、展開があり、でまた基本がある。

小さくても守れればいいという志向では勝てないはずなので、この勝負には攻め方にミスを混ぜないようにすること。相手の仕掛けに負けない捌きを覚えることという理屈が体得出来ればいいのかと思う。

何事も挑戦しないことが信条というのでは、碁は勝てないのだろう。
そういう部分を補強できるのが盤ゲームなんじゃないかという想いだけが今はある。

ゲームをちゃんと眺められるようになれば、それでも「まずはこう守ってから」とか「こういう手が相手のミスだからそういう時は躍動せよ」というシグナルが嗅げるようになれればいいのだろう。

そのレベルに至るには何年かかることなのだろう。嘆息。

そうそう。
何で読んだんだろう。きっと俺の云っていることに戻ってくるという話をどこかで読んだ。碁じゃない、、、あぁ釣りだ。
井伏鱒二の釣りの話だ。川釣りという短編集の中で友釣りのことが書かれていた。

俺の言うとおりにしていれば、まずは釣れるようになる。
でもそのうち自分で考えたやりかたの方が合っているんじゃないかとお前は試行錯誤を繰り返す。
行き着くところ、まるで釣れなくなるまでになってしまい、やがてスランプというやつに陥る。
それで俺の言うとおりに戻してみるが、それでも釣れない。
また、試行錯誤を始める。
そしてやっと俺の言ったとおりのことが出来るようになり、やっぱりこの方法がいいんだと思うはずだ。
と名人に言われたらしい。

立ち読みで読んで戻してしまったのだが、妙にそのことが頭から離れない。
経験と自分らしい工夫を凝らすことを経ずして、最終的な境地には立てないという話だった印象。

「藻掻く」という単語が合っているのかいないのか。

がむしゃらにならない、工夫を凝らさない、諦めの早い人間ってのにはなりたくないもんだと思ってしまった。


自分の底辺に流れているものが単に「飽きが早い」ではなく、「諦めが早い」というものでないことを願って止まない。

違うよね?いやそうかもね。いや違うと思いたい。
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