(思い出寄稿みたいで長々書いてしまいました。読み飛ばし下さって結構です)
実は完読に近いのは、ほんとうの定年後の方でして、
最後の方で、リアルな人の定年間際までの人生とその後を書いた実例で打ちのめされています。
少しでも世間と関わりを持つべきで、それを上手くコントロール出来ている人たちが登場します。
小さい仕事を何か作れないだろうか?と頭を悩ませてみるきっかけになりました。(結局他の本を購入)
そういう連鎖とは別の本に出会いました。ので、紹介します。
ロックで独立する方法! なんと忌野清志郎著
まえがきで「成功するではなく、独立するというちょっ変わったタイトルだが、忌野清志郎にとっての成功とは独立なんだろう」みたいな文が気に入った。
まだまだ序盤辺りを読んでるが、清志郎が世間一般の音楽で飯を食ってこうとする若者たちに向けた、遺書みたいな本だった。
この年になって思い出すのは、私にも音楽を目指していた幼馴染の友達がいたこと。
なんと保育園から大学の学部、サークルまでが一緒という腐れ縁で、時にほとばしる音楽への情熱は凄まじかったことを覚えている。
大学のサークルでは部室があり、隣の隣には有名なミュージシャンもいた、GEC(Guiter Enjoy Club)があったが、高校時代にバンドにのめり込んだ我々は誰も音楽サークルに入らなかった。
部室では、ギターが置いてあり、よく誰かが弾いて、歌っていたが、時代が進み、我々が3年生になった頃は私も下宿を学校の側にしていたものだから、夜遅くまで部室で作曲を皆でしては、テープに吹き込んでいた。
ギャグソングが沢山生まれていく中で、名曲っぽいものも生まれていき、実はGECが好きだった女子がそのテープをGECにいた真心ブラザーズに聞かせて、感想をもらったりしていた。
私は大学卒業後は、勤め人になることを入学した時から考えている様な一般人だったが、その幼馴染が半年もしない頃に研修後の配属地域の発表と同時に退職して東京に戻ってきた。
彼は結婚を決めた時に、音楽を諦め、勤め人になった。
営業を担当してる、3人で、西日本担当と東日本担当と北海道沖縄首都圏担当に別れて出張に飛び回っていると言っていた。
結婚する前の7年位をバイトをしながらバンドを組んでいた。私も最期の3年くらいは一緒に演っていた。
彼の口癖は「デートする金があるならスタジオ入ろうぜ」だった。
私がアメリカ赴任後は会えていないが、ずいぶん出世したらしい。
彼は昔から忌野清志郎が好きだった。
私は彼を通して清志郎と触れあっていた。
お互いの息子たちを遊ばせている日に訃報を知り、何気なく伝えたら、朝の弱い彼は知らなくて奥さんもどう伝えたらいいか迷ってたらしい。
バツが悪いとは正にこのことで、頭を抱えて帰って行ってしまった。
後日、葬列に加わり、拝んできたと教えてもらった。
遺影(Yeah!)と書かれた写真が額縁に嵌め込まれて飾られていたのが印象的だ。
なので、確かに忌野清志郎の言葉なのだが、幼馴染を常に思いながら読める本です。
バイトのこと、路上ライブのことを読みましたが、なかなか手厳しいです。
あの頃(生前)よりもっと手軽にできる分、覚悟と姿勢が問われる時代になったんだなとしみじみ思います。
実はこの本、文教堂書店本店の階段で初めて止まって手に取りました。文庫本のコーナーにあったら出会えなかったかもと思うとヒヤヒヤします。