Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

シネマしりとり「薀蓄篇」(8)

2012-07-20 00:15:00 | コラム
むらきよしろ「う」→「う」らじみーる・なぼこふ(ウラジミール・ナボコフ)

聞かれたわけでもないのに何度も主張していることのひとつに・・・

自分は、社会的に(たぶん)許される範囲内のロリコンである、、、というのがある。

つまりペドフィリア(=小児性愛、児童性愛)ではないよと。
小学生で疼くことはないが、中学生だったらOKみたいな。

挑発的なエロスより、
まだ、自身の性的魅力に気づいていない―そんな、無防備さからくるエロスのほうにグッとくる。

好きなAV女優は「みんなそんな感じ」だし、女子のファッションも「そんな感じ」なのが好き。

いつごろから?

ずっと前からそうだった、、、ような気がする。


ロリコンはロリータ・コンプレックスの略だが、このことばは「ハンバート・コンプレックス」のほうが適切なのかもしれない―という意見がある。
「エディプスコンプレックスがエディプス王に由来することば」であることに倣えば、
少女に特別な感情を抱くコンプレックスは、小説『ロリータ』の主人公ハンバートが抱えたもの。
だから、ハンバートに愛された少女の名前を冠するのはおかしい、、、というわけ。

確かにそうだが、もう根づいたことばであるし、ロリータという響きは(結果論のような気もするが)インパクト大だからね、もう修正は不可能だろう。

『ロリータ』の生みの親が、ウラジミール・ナボコフ。
ロシア出身の作家で、沢山の作品を残した―のだが、これ一作で語られることの多いひと。

実際、自分も『ロリータ』しか読んだことはない。

下宿先で知り合った少女にこころを奪われる大学教授の物語・・・ぜんぜん危険でもないしエロくもない、というのが率直な感想ではあるものの、
ロリータに「近づくために」母親である未亡人と結婚しようとしたり、
確かにちょっと常軌を逸しているのかもしれない、そういった内容が問題視され、度々発禁処分を受けた問題作として有名である。

やや逸れるかもしれないが、軽薄な80年代(でも、好きな時代だよ)では許された『およしになってねTEACHER』(おニャン子)が、エンコーやワイセツ教師の大量発生により現代ではNGっぽくなっているのにちかい―つまり、時代も関係しているのかと。

それでも都知事あたりはいうのかね、小説の『ロリータ』は許せても、それをコミックにしてみたらダメだと?


さて映画版の『ロリータ』は、61年と97年に制作されている。

前者はキューブリックが、後者はエイドリアン・ラインが映画化。
ともに成功作とはいい難いが、監督としては申し分がないというか、このふたり以外は創っちゃいけないのでは・・・と思えるほど、スキャンダラスということばが相応しい監督である。

甲乙をつけるとすれば、演出力に関係なく、ロリータ役の女優(ドミニク・スウェイン…トップ画像)で後者の勝ち。
キューブリック版は、ロリータに魅力がなさ過ぎた。


自分の友人にロリータ系の女子が居て、いまでも「頑張れば」同年代なのに20代前半に見える。
付き合う男は50代くらいばかりで、みなロリコンなのかと思うが、そんなジイサンと97年版の『ロリータ』を観たそうだ。

彼女曰く「ロリータはカラッポの人間として描かれていて失望したけれど、ハンバートを抱きしめたくなった」。

なるほど。
愛情を注ぐ男ばかりでなく、受けるほうの「少女」にも「その気」があるということなのか。


こうしたテーマを語るのは、常に「すれすれ」だ。
完全に「向こう側」にいってしまうと児童ポルノの問題と直結するし、
でも「向こう側にいきそうでいかない」ところに文化があったりもする。

「自分はロリータか否か」を判断するリトマス試験紙として、とりあえず映画『エコール』(2004)と、AV女優のつぼみをプッシュしておこう。


※でもポスターや予告編などは、さすがキューブリックという感じ。






次回のしりとりは、
うらじみーる・なぼこ「ふ」→「ぶ」るーたす

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

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明日のコラムは・・・

『「知っているよ」、とはいえません。』

コメント (4)
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