忘年会がつづく。
呼ばれればどこにだって行くし、金がなくとも二次会三次会にも顔を出す。
参加メンバーを聞いてからどうするか決めるひとも居るが、そんなことはしない。
そりゃ苦手なひとだって居るけれど、ソイツとは「話さず・目もあわせず」の状態を保てばいいわけで、そんなことよりも酒が好きだからゼッタイに参加するぜよと、、、まぁそんなヤツである。
ただ、
つまらなかったなー、参加しなければよかったなー、金をムダにしたなぁー、
なんて後悔することは、「ときどき」ある。
ろれつが回らなくなる、「より」ヘラヘラする―というぐらいで、基本のキャラは呑んでも変わらない。
とにかく楽しく呑むことが出来れば満足はするのだが、ひとの文句や悪口ばかりいう呑み会は、やっぱりつまらないねぇ。
自分だってグチのひとつやふたつはいうよ、でも最後はちゃんと笑いで落とすという最低限のマナーは(酔っていても)守っている、それを守らない「悪口のいいっ放し」は、なんというか建設的でないっていうか、愛もないし、くだらないなぁって。
先週の呑み会がそうだった。
参加しなかったもの、全員の悪口をいっていた。
Aさんは未だに結婚していないからレズだとか、
Bさんはプライド高過ぎて付き合いきれないだとか、
Cさんのイキザマはコバンザメみたいで軽蔑するだとか、
ジョークのにおいがしない本気の悪口ばかりで楽しむ余地がなく、珍しく二次会に参加しないで帰還したのである。
きっと二次会では自分の悪口も出たことだろう。
まぁいいや、キチガイとか自慰小僧とか、そんな程度だろうし、彼ら彼女らはそれが自分にとっての褒めことばとすら気づいていないにちがいない。
わはは、馬鹿め。
さて。
その呑み会でもいっていたヤツが居たのだが、「あのひとは、酒の呑みかたを知らない」という表現がある。
「酒の呑みかた、教えてください」っていうひとも居るしね。
これって、なにかね? という話である。
「上から」目線が鼻につくわけだが・・・まぁ自分だって「アイツは映画の観かたを知らない」とかいうこともあったりするだろうから、そんなに批判出来るわけじゃあないけれども。
「家呑み」も「外呑み」も好きだ。
だが「家呑み」を批判するひとが居る。
安上がりでいいじゃないかと思うが、「内にこもり過ぎ」なんだそうだ。
外で呑んだとしても、個室であったり、居酒屋の「自分たちのエリアから外に出ない連中」もダメだという。
あぁなるほどね。
スナックとかで、きょう初めて会ったひとと会話をしたり、ママと深い話をするのが上級者だといいたいわけだね。
分からないでもないが。
映画でいうとあれだ、自分がよく口にする「映画はスターで観るものじゃない、監督で観るものだ」みたいなものだろう。
どう観たって「こころ」に響けば映画の効用はある、それで充分だと分かっていながら敢えて監督主義を主張してみるわけだが、「呑みかた」を強要するひとたちも似たところがあるのだろうか。
だが先日の呑み会における「あのひとは、酒の呑みかたを知らない」という批判のしかたがあまりにも強く、あぁこのひとは、ほんとうにそう思っている・信じているっぽいな、、、と、ちょっと怖くなったのである。
・・・怖いよぉ。
アルコールは楽しくなるための/豊かになるためのアイテムのはずなのに、ギスギス・トゲトゲが際立ち過ぎて、まるで楽しめないよ。
と同時に、映画の観かたにおける「強要っぽい」発言について猛省する自分。
ひとそれぞれだとはいうけれど、寛容になるというのは、なかなかに難しいことなのかもしれない。
逆にいえば、自分を認めてほしいゆえに、、、と捉えることも出来るわけで、ほんとう、人間って、おかしくて、哀しい(=『ファーゴ』のキャッチコピー)存在ですわな。
※トップ画像は、「酒を呑む」映画の王者『リービング・ラスベガス』(95)のヒロイン、エリザベス・シュー。
下記動画は、この映画の主題歌になったスティングの名曲。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『怒れる牡牛の物語』
呼ばれればどこにだって行くし、金がなくとも二次会三次会にも顔を出す。
参加メンバーを聞いてからどうするか決めるひとも居るが、そんなことはしない。
そりゃ苦手なひとだって居るけれど、ソイツとは「話さず・目もあわせず」の状態を保てばいいわけで、そんなことよりも酒が好きだからゼッタイに参加するぜよと、、、まぁそんなヤツである。
ただ、
つまらなかったなー、参加しなければよかったなー、金をムダにしたなぁー、
なんて後悔することは、「ときどき」ある。
ろれつが回らなくなる、「より」ヘラヘラする―というぐらいで、基本のキャラは呑んでも変わらない。
とにかく楽しく呑むことが出来れば満足はするのだが、ひとの文句や悪口ばかりいう呑み会は、やっぱりつまらないねぇ。
自分だってグチのひとつやふたつはいうよ、でも最後はちゃんと笑いで落とすという最低限のマナーは(酔っていても)守っている、それを守らない「悪口のいいっ放し」は、なんというか建設的でないっていうか、愛もないし、くだらないなぁって。
先週の呑み会がそうだった。
参加しなかったもの、全員の悪口をいっていた。
Aさんは未だに結婚していないからレズだとか、
Bさんはプライド高過ぎて付き合いきれないだとか、
Cさんのイキザマはコバンザメみたいで軽蔑するだとか、
ジョークのにおいがしない本気の悪口ばかりで楽しむ余地がなく、珍しく二次会に参加しないで帰還したのである。
きっと二次会では自分の悪口も出たことだろう。
まぁいいや、キチガイとか自慰小僧とか、そんな程度だろうし、彼ら彼女らはそれが自分にとっての褒めことばとすら気づいていないにちがいない。
わはは、馬鹿め。
さて。
その呑み会でもいっていたヤツが居たのだが、「あのひとは、酒の呑みかたを知らない」という表現がある。
「酒の呑みかた、教えてください」っていうひとも居るしね。
これって、なにかね? という話である。
「上から」目線が鼻につくわけだが・・・まぁ自分だって「アイツは映画の観かたを知らない」とかいうこともあったりするだろうから、そんなに批判出来るわけじゃあないけれども。
「家呑み」も「外呑み」も好きだ。
だが「家呑み」を批判するひとが居る。
安上がりでいいじゃないかと思うが、「内にこもり過ぎ」なんだそうだ。
外で呑んだとしても、個室であったり、居酒屋の「自分たちのエリアから外に出ない連中」もダメだという。
あぁなるほどね。
スナックとかで、きょう初めて会ったひとと会話をしたり、ママと深い話をするのが上級者だといいたいわけだね。
分からないでもないが。
映画でいうとあれだ、自分がよく口にする「映画はスターで観るものじゃない、監督で観るものだ」みたいなものだろう。
どう観たって「こころ」に響けば映画の効用はある、それで充分だと分かっていながら敢えて監督主義を主張してみるわけだが、「呑みかた」を強要するひとたちも似たところがあるのだろうか。
だが先日の呑み会における「あのひとは、酒の呑みかたを知らない」という批判のしかたがあまりにも強く、あぁこのひとは、ほんとうにそう思っている・信じているっぽいな、、、と、ちょっと怖くなったのである。
・・・怖いよぉ。
アルコールは楽しくなるための/豊かになるためのアイテムのはずなのに、ギスギス・トゲトゲが際立ち過ぎて、まるで楽しめないよ。
と同時に、映画の観かたにおける「強要っぽい」発言について猛省する自分。
ひとそれぞれだとはいうけれど、寛容になるというのは、なかなかに難しいことなのかもしれない。
逆にいえば、自分を認めてほしいゆえに、、、と捉えることも出来るわけで、ほんとう、人間って、おかしくて、哀しい(=『ファーゴ』のキャッチコピー)存在ですわな。
※トップ画像は、「酒を呑む」映画の王者『リービング・ラスベガス』(95)のヒロイン、エリザベス・シュー。
下記動画は、この映画の主題歌になったスティングの名曲。
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明日のコラムは・・・
『怒れる牡牛の物語』