世界の興行成績で第1位に君臨しつづける映画、『アバタ―』(2009)。
3DCG技術の完成度の高さは7年を経過した現在でも震えるほどだし、物語だってどうこうケチをつけるほどではない、
ないにも関わらず、個人的には、あまり好きになれない作品だったりする。
その、大きな理由のひとつが、トゥルーク(=翼竜)の存在である。
後半、主人公は、このトゥルークに受け入れられて「乗り手」となる。
この受け入れられかたが、なんというか暴力的で一方的に見えるのだ。
自分の部位を、相手に差し込む(挿入する)過程が、簡単にいえばレイプじゃないかと。
力でねじ伏せる―映画では、よくある描写だし、実社会でもそういうことは多い。
この映画は、ジェームズ・キャメロンによるもの。
たとえばこれがキューブリックやスピルバーグ印の作品であれば、そこまで引っかからなかったはずで。
あれだけ女子礼賛の物語を創ってきたキャメロンが、こんな設定で物語を進めてしまうの? と、ちょっと裏切られた気持ちになってしまったのである。
考え過ぎかもしれない。
ただ、いちど引っかかってしまったら、自分のなかでそれを消化することは出来なくなり。
なんだか、気分が悪いな・・・そんな感想を持ったままだから、2度目の鑑賞をする気になれなかったのだった。
少しでも「いいな」と感じたら、何度も何度も観返すタイプの映画小僧である。
イタリアの鬼才ベルナルド・ベルトルッチの映画もそうで、とくに『暗殺の森』(70)、『1900年』(76)、そして『ラストタンゴ・イン・パリ』(72)は、それぞれ少なくとも3度は観返している。
コッポラとベルトリッチの70年代って、映画監督として絶頂期だったんだろうな、、、と思わせる傑作がそろっている。
『ラストタンゴ・イン・パリ』は、中年男(マーロン・ブランド)と若い女(マリア・シュナイダー)が出会い、男は女をレイプし、それをきっかけに会えばセックスをする間柄になるが、次第に立場が逆転していき、とうとう別れが訪れる・・・という、物語としてはどうかと思うが、セックスの「ある一面」を描いたベルトリッチらしい作風が刺激的で、割と好きな映画だった。
この映画が、40年以上も経過したいまになって問題となっている。
男がバターを潤滑剤にして女をレイプするシーン。
ベルトリッチ曰く「ある意味、マリアには残酷なことをしたと思う。なぜなら、僕は彼女に一体何が起きているのか伝えなかったんだ(中略)マリアは僕とマーロンのことを憎んでいたよ」
どういうことか。
濡れ場であることは知っていたが、
バターを使うこと、バターを使って「その寸前までの行為」を撮影することを、マリア・シュナイダーは知らなかったのである。
マリア、生前のインタビュー「あの時、事務所や弁護士に電話をして、撮影現場に来るようお願いすべきだった。脚本にないことをやらせるなんて無理なんだって(主張するために)。でも当時の私はそれを知らなかった。マーロンは『マリア、心配するなって。単なる映画なんだから』っていったの。でもそのシーンの間中、マーロンのしたことが実際のことでないにもかかわらず、私は本当の涙を流していたわ。屈辱を感じたし、正直いって、レイプされたような気にもなったわ。マーロンとベルトルッチ、2人両方にね。その撮影後、マーロンは慰めも謝りもしなかった。幸いだったのは、それがワンテイクだったことね」
ベルトリッチの発言は尾ひれがつき、実際にレイプ行為に及んだとネット上で拡散されていく。
ジェシカ・チャステイン「この映画を愛しているひとへ。あなたは19歳の少女が48歳の男にレイプされているのを見ているのよ。監督は彼女を襲うことを計画していたの。気分が悪い」
問題なのは、当事者3人のうち2人が故人であるということ。
うち1人だけの発言では全体像が見えてこず、ベルトリッチがいまさらアアダコウダいったところで、なんの効力もないし、はっきりいって、喋れば喋るほど印象は悪くなっていく。
このネット時代、それが嘘だったとしても、流された情報を完全に消し去ることは出来ない。
だからベルトリッチは、多くのひとにとって「実際のレイプを撮った鬼畜監督」と認識されつつある。
その点においては、多少気の毒かもしれない。
けれども。
たとえば、実際の本番撮影をおこなったオオシマの『愛のコリーダ』(76)はどうだろう。
助監督を務めた崔洋一は、「神聖な撮影だった」と回想している。
長いレイプシーンが物議をかもしたノエの『アレックス』(2002)はどうだろう。
過酷な撮影だからこそ、モニカ・ベルッチへのケアは完璧だったはずで。
質が、ぜんぜんちがうのではないか。
つまりは、フェアじゃないってこと。
ベルトリッチの、この発言がすべてだと思う。
「演技ではなく本物の屈辱を表現してもらいたかったから」
いまの感覚や倫理観で、昔を裁くなっていう意見があることは知っている。
でもやっぱり、おかしいなと思う。
だから自分は、最近まで抱いていた「ベルトリッチに対する敬意」をどこに持っていったらいいか分からなくなり、ひじょうに混乱している。
監督至上主義の自分にとって、映画監督とは、最敬礼すべき存在だと思っているから。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(205)』
3DCG技術の完成度の高さは7年を経過した現在でも震えるほどだし、物語だってどうこうケチをつけるほどではない、
ないにも関わらず、個人的には、あまり好きになれない作品だったりする。
その、大きな理由のひとつが、トゥルーク(=翼竜)の存在である。
後半、主人公は、このトゥルークに受け入れられて「乗り手」となる。
この受け入れられかたが、なんというか暴力的で一方的に見えるのだ。
自分の部位を、相手に差し込む(挿入する)過程が、簡単にいえばレイプじゃないかと。
力でねじ伏せる―映画では、よくある描写だし、実社会でもそういうことは多い。
この映画は、ジェームズ・キャメロンによるもの。
たとえばこれがキューブリックやスピルバーグ印の作品であれば、そこまで引っかからなかったはずで。
あれだけ女子礼賛の物語を創ってきたキャメロンが、こんな設定で物語を進めてしまうの? と、ちょっと裏切られた気持ちになってしまったのである。
考え過ぎかもしれない。
ただ、いちど引っかかってしまったら、自分のなかでそれを消化することは出来なくなり。
なんだか、気分が悪いな・・・そんな感想を持ったままだから、2度目の鑑賞をする気になれなかったのだった。
少しでも「いいな」と感じたら、何度も何度も観返すタイプの映画小僧である。
イタリアの鬼才ベルナルド・ベルトルッチの映画もそうで、とくに『暗殺の森』(70)、『1900年』(76)、そして『ラストタンゴ・イン・パリ』(72)は、それぞれ少なくとも3度は観返している。
コッポラとベルトリッチの70年代って、映画監督として絶頂期だったんだろうな、、、と思わせる傑作がそろっている。
『ラストタンゴ・イン・パリ』は、中年男(マーロン・ブランド)と若い女(マリア・シュナイダー)が出会い、男は女をレイプし、それをきっかけに会えばセックスをする間柄になるが、次第に立場が逆転していき、とうとう別れが訪れる・・・という、物語としてはどうかと思うが、セックスの「ある一面」を描いたベルトリッチらしい作風が刺激的で、割と好きな映画だった。
この映画が、40年以上も経過したいまになって問題となっている。
男がバターを潤滑剤にして女をレイプするシーン。
ベルトリッチ曰く「ある意味、マリアには残酷なことをしたと思う。なぜなら、僕は彼女に一体何が起きているのか伝えなかったんだ(中略)マリアは僕とマーロンのことを憎んでいたよ」
どういうことか。
濡れ場であることは知っていたが、
バターを使うこと、バターを使って「その寸前までの行為」を撮影することを、マリア・シュナイダーは知らなかったのである。
マリア、生前のインタビュー「あの時、事務所や弁護士に電話をして、撮影現場に来るようお願いすべきだった。脚本にないことをやらせるなんて無理なんだって(主張するために)。でも当時の私はそれを知らなかった。マーロンは『マリア、心配するなって。単なる映画なんだから』っていったの。でもそのシーンの間中、マーロンのしたことが実際のことでないにもかかわらず、私は本当の涙を流していたわ。屈辱を感じたし、正直いって、レイプされたような気にもなったわ。マーロンとベルトルッチ、2人両方にね。その撮影後、マーロンは慰めも謝りもしなかった。幸いだったのは、それがワンテイクだったことね」
ベルトリッチの発言は尾ひれがつき、実際にレイプ行為に及んだとネット上で拡散されていく。
ジェシカ・チャステイン「この映画を愛しているひとへ。あなたは19歳の少女が48歳の男にレイプされているのを見ているのよ。監督は彼女を襲うことを計画していたの。気分が悪い」
問題なのは、当事者3人のうち2人が故人であるということ。
うち1人だけの発言では全体像が見えてこず、ベルトリッチがいまさらアアダコウダいったところで、なんの効力もないし、はっきりいって、喋れば喋るほど印象は悪くなっていく。
このネット時代、それが嘘だったとしても、流された情報を完全に消し去ることは出来ない。
だからベルトリッチは、多くのひとにとって「実際のレイプを撮った鬼畜監督」と認識されつつある。
その点においては、多少気の毒かもしれない。
けれども。
たとえば、実際の本番撮影をおこなったオオシマの『愛のコリーダ』(76)はどうだろう。
助監督を務めた崔洋一は、「神聖な撮影だった」と回想している。
長いレイプシーンが物議をかもしたノエの『アレックス』(2002)はどうだろう。
過酷な撮影だからこそ、モニカ・ベルッチへのケアは完璧だったはずで。
質が、ぜんぜんちがうのではないか。
つまりは、フェアじゃないってこと。
ベルトリッチの、この発言がすべてだと思う。
「演技ではなく本物の屈辱を表現してもらいたかったから」
いまの感覚や倫理観で、昔を裁くなっていう意見があることは知っている。
でもやっぱり、おかしいなと思う。
だから自分は、最近まで抱いていた「ベルトリッチに対する敬意」をどこに持っていったらいいか分からなくなり、ひじょうに混乱している。
監督至上主義の自分にとって、映画監督とは、最敬礼すべき存在だと思っているから。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(205)』