高学年以上
6年生の滝川一将は、同じクラスの咲良から、今朝弟の将人が先生に叱られていたと教えられた。大勢の前で、かわいそうだったとも。将人は、大縄飛び大会に参加することになったのだが、「できない子」が出る練習に出なかったからだという。だが、将人は、「ぼく、できるもんっ」と兄に言う。将人にとっては、大縄跳びは、他のものに比べて「できる」ほうだったのだ。だが、先生からは「できない」と思われていた。
そのことがきっかけで学校に行けなくなった将人。一将や咲良は、先生が大勢の前で生徒を叱ることが納得できず、委員会でこの問題を取り上げる。だが、当事者ではない他の子からは、面倒くさいと思われるだけだった。
だが、一人の先生が、「学校って、だれもためのものだと思う?」と気持ちをもらす。
二人の母もまた事情を聞き、PTAの議題にするが、会長や他の母親には気持ちが通じない。
学校はだれのものなのか? もちろん子ども達のためのものなはず。ではその学校で子どもが嫌な思いをするのは、おかしい。そうであってはならない。そのために努力されている先生はたくさんいることだろう。だが、それでも学校が楽しくないと感じる子どもは多い。
私が小学校のとき、こんなふうに「学校はだれのものか?」という問いに出会ったら、どうだったろうか。
一将や咲良のように、目の前の問題に目をそらさず立ち向かう子も、いると知ることができたら、きっと勇気をもらえただろう。私は優等生は優等生。そうでない子は(つまり私)は、それなりにすごす。そういう場が、学校だった。
工藤さんは、視点を変えることで、どの子にも、それぞれの事情があり、学校への思いも違うことをきちんと書いている。母親や先生に対してもだ。
この作品は、現代の子どもを描いていて、かつ普遍的な問題をきちんと捉えている。ここが、すごい。きっと話題になる作品だと思ったし、なるべき作品だ。