秋田市雄和町出身の俳人で、石井露月という人がいます。
文学を志し上京し、坪内逍遙に会いますが、弟子入りを断られ(文学をやるには、才能と財力が必要と言われた)、その後正岡子規の世話で新聞社に入ります。そして子規をとりまく文学者達と交流を深めていきました。
露月はその後、文学をあきらめ、医師の道へ進みます。そして故郷で医師をしながら、多くの人を助け、その傍ら俳句を広めたのです。
子規の門下の中では、高浜虚子、佐藤紅禄、河東碧梧桐と共に、四天王と呼ばれました。
故郷にもどってからも、彼らとの親交は途切れることなく、多くの手紙が残っています。これが、子規や虚子を研究する人達にとって、大変貴重な資料です。虚子、碧梧桐など、この家を訪れ、裏にある高尾山に登っています。近くには雄物川が流れていて、その川を舟で来たということです。
二階の書斎は明治時代に建てられたそのまま残っている貴重な家。一階は診療室だったそうです。
上の机に座り、書き物をしながら、ふと左上を見ると目に入るところに、子規の写真がありました。
長く訪れたいと思っていたのですが、ここは予約をする必要があったため、ふらりと立ち寄るわけにもいかず、ずっと先延ばしをしていました。
今回雄和図書館さんにも用事があったため、こうして訪問の機会を得ることができました。
雄和図書館さんには、露月資料室があり、掛け軸や手紙など、予想をはるかに上回る資料が展示されていました。
すばらしい文字。
鬼灯を貰ひに来るや隣の子 露月
木葉ふるや掃へども水そそげども
露月は、子規臨終の知らせをもらっても、すぐには上京できませんでした。2句目は、その後訪れた子規の墓で詠んだ句です。
子規はいろんな人に手紙を出していますが、露月は医者だったということもあり、最後の頃のやりとりは、その苦しさを吐露したものでした。