fromイーハトーヴ ーー児童文学(筆名おおぎやなぎちか)&俳句(俳号北柳あぶみ)

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座について(「童子」2017・9月号から)

2017年09月24日 | 俳句
 俳句は座の文芸であるということについて、「童子」9月号で、辻桃子主宰が言及していて、(そう、そうなの!)と嬉しくなりました。文学というものに対してどう向き合うのかという根源的なことにつながります。

 このブログを始める際に、「童子」に発表された句などを紹介する許可をいただいているので、辻桃子主宰の文章の一部を転記させていただきます。

 句会は単なる俳句の勉強会、訓練の場だけではない。昔から「座」といって大切にしてきた、魂の寄り合うところなのだ。芭蕉に〈秋近き心のよるや四畳半〉という句もあるくらいだ。
「句会で月に一回会う人は、その座でめぐりあった運命の仲間なのよ。その人を大切にし、その作品がどんなに未完成でも大切に読み合うという気持ちがなかったら、句会なんて成り立たないと思うの」
 昔、俳句の先輩から教わったのが、「一期一会」という言葉だった。一つの句会は、同じメンバーで同じところで、同じ句を出すことは二度とない「座」なのだ。仲間の句を、「大切に拝読させていただく」という心構えが大切だ。そこはまた禅で言う「自己放下(ほうげ)」の場でもある。とりあえず句会の何時間か学ばせていただいているのだから、自分の句に何点入ったとか、ほめられたといった執着は捨てて、ただそこに居させていただく、という謙譲の精神が基本なのだ。
 「そうやって厳しく自分を磨かないで、どうして五七五というこんなに短い俳句に、自分の全存在を込めるなんていうことができるでしょう」

  中略

   金木犀

 やめてしまったらただのおばさん、悲しいことも人間学だと思って俳句を作り続けていれば俳人なのよ。  「桃子草子」より 
 

 私が児童文学を主にやりながら、俳句をやめないでいるのは、俳句をやっていたら、いい児童文学を書けるからでもなければ、役にたつからでもない。ましては、すごい句を世に残したいからではない。
 こういった精神を学ぶことができるからです。

 『オオカミのお札』〈三)美咲が感じた力 現代 の中で、おじいさんが、お札は買うのではなく、「いただく」ものと、美咲はいつも言われて育ったと書いています。これは、まさに辻桃子主宰がいつもおっしゃっていること。神仏への畏敬を常に持っているべきということを折に触れて〈句会で)言われてきました。
 吟行で、人が集まったとき、座敷の外のスリッパが乱れていると、「スリッパをそろえなさい。そのほうが、俳句より大事です」と言います。人としてあるべき姿を教えられるのです。〈全て身についてはいませんが)

 そういう心持ちがあってこその文学なのではないかと、改めて思いました。
 児童文学で出会う方達とも、この気持ちを持っていないと! 

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