猫がお好きなんですね。
そう言われるたび、
私は、考え込んでしまうんだ。
だって、私は犬が好きだから。
おはようございます。
私がこれまでの人生の中で、
自分から望んで、迎えた動物は、
実は、パンチョという子犬だけだった。
当時、私は、元夫の実家で、嫁修行をしていた。
不慣れな修行が祟って、病に罹った。
それを機に、夫婦での別居を許された。
なかなか、子供が出来ない事もあったからだろう。
しかし、その時、
私は、自分の子宮に子を宿す事が難しい事を、
実は知っていた。
当時は体調不良が続いていて、
ついでに行った婦人科で、それを告げられたのだ。
その時の医師は、半笑いで
「最近の人は、まだ未成熟の歳で関係を持っちゃうから、
後にも、子宮の発育にも問題が出る事がある。
妊娠は、あと10年位待ってみたら?」と言った。
それを聞いて、私は体中が震えて、立てなくなった。
私は、幼少期に、性虐待を受けていたからだ。
両親が忙しく、それが故、よく預けられていた家で、
何度も被害を受けていた。
その記憶がよぎった瞬間、また骨盤の痛みが蘇って来て、
私は、立てなくなったのだ。
家に帰っても、その事実は、言えずにいた。
誰にも、言えなかった。
誰にも言わず、知らぬ顔して、
新居に移ったら、犬を飼いたいと、笑って見せた。
本当は言わなければならない事を、
私は、隠して、子犬を飼った。
まるで、人の子を取って、
我が子の振りをして見せるかのように、子犬を飼ったが、
子犬は、人の子には見えない事にすら気付けなかった。
忙しい、忙しい。
あの子の世話で、夜も寝られない位、忙しいわ。
そんな事を言っていたのも、つかの間だった。
私の子は、1か月後、この世を去った。
パンチョは、死んでしまったのだ。
私のせいなのではないかと、感じた。
私の罪を背負わせてしまったのではないかと。
それ以前に、
こんな私が、我が子を持ちたいなんて
思うのが間違いだったのではと。
あれ以来、なんだかんだと猫とばかり出会って来た。
うめとも、不意の出会いだったが、
パンチョを亡くした後だったからか、
ペットショップで売れ残っている、うめを、
見過ごす事が出来なかった。
よねも、きくも、不意に出会った、猫達だ。
そして、彼女達にとって、私は、あくまで「お姉さん」だ。
もう一度言うが、「お姉さん」だ。
母さんだよと、名乗る自信は、無かった。
あやも、おたまも、私が拾った。
よし、飼うぞと望んだ訳では無い。
そして、さすがに、私は「おばちゃん」と名乗った。
そういう歳だから。
もちろん、うんこだって、不意中の不意だ。
だけど、あの子は、私を「母さん」だと思っている。
私は、自分の命の価値なんて、見いだせない。
生きたいと望んで生きてきた経験が、あまりない。
自分を消してしまいたい。
そう思いながら、時には人や自分を傷つけながら生きてきた。
そんな私は、今、
死んでたまるかと、よく呟く。
そして、生きていて良かったと、思う時が増えてきた。
パンチョを見送った時、
うめを見送った時、
きくを見送った時、
私は、生きていて良かった。
この子の最期を見るために、生きていて良かった、
そう深く思うのだ。
命は重い。
そして、尊い。
言うのは簡単だが、
人は、時には、生きるも死ぬも、難しくなるものだ。
そんな私の元で暮らす動物達は、
ご飯をやって、頭を撫ででやれば、幸せそうに生きていられる。
それを見ていると、
途端に、生きる事が簡単に思えてくるから、不思議なものだ。
私は、猫の頭を撫ぜるために、生きているようなものだ。
おばちゃんだろうが、母さんだろうが、
そんな事は、どうでもいい。
ただ、こんな私でも、
彼らを、最期まで幸せにしてやりたい。
そう思うと、生きる事が難しくなくなるという訳だ。
おい、おたま?
い・・・生きてるか?
なんか、足とか手とか、ややこしいな。
ややこしく、生きてるな。