物事がわかっている、いないは、間の取り方と、タイミングによって測られるのかもしれない。
タイミングは、早すぎても遅すぎても・・・・ね。
昨日の私の反省。息子に説教した。思っていることがあって・・・でもずっと飲み込んできた。
彼の人生だし、帰国子女三年目、いろいろなこともあっただろう・・・飲み込まなくちゃ。
が、ついに、昨日は説教を垂れてしまった。相手が望んでない説教だろうから、垂れるかな。動詞の使い方が不適切かも・・・・。
そして、今、反省している。そもそも、説教は相手がわかっていない時にするもので、相手がそれをわかっているときにするものではないだろう。に・・・・。
する側からすると、わかっていない相手にするのは、し辛い。わかっている相手には、言い易い。そこを微妙に感じて「つい」言ってしまう。気づかないのなら、言うべきだろうが・・・気づいている人に、さらに言葉を重ねて思い知らすことは,建設的なことではないような気がする。
にっこりしていればいいんじゃないか・・・・。
じゃあ、わからない人に説教するとどうなるか・・・それも、また「何言ってるかわからない」になるのかもしれない。そうすると、つまり説教はいらないということになるのかな。
なんだか自分がとっても、嫌に思えてしまう、そんな一日に自分がしてしまった。
今日はそんなことがないように、雑巾がけをしようっと。雑巾がけについては・・・また次のブログの種にしようっと。