2013年7月10日に開催された「第三回お茶の水コラボレーションセミナー」での講演内容は「富士フイルムの医療分野事業への進出」の経緯などの解説でした。
同セミナー主催者は産学連携学会です。会場は東京都文京区の東京医科歯科大学構内です。
このセミナーの参加者の多くは、銀塩系カラーフィルム市場で、一時は世界で数社に入るトップシェアを持っていた富士フイルムが事業転換し、医療事業などの六つの事業分野に事業展開することに成功した経緯に一番関心があったようです。講演後の質疑応答は、この点に集中しました。
日本の富士フイルムとコニカの2社は、銀塩系写真フィルム事業の世界的なトップ企業でした。ところが2000年以降は、デジタルカメラの普及によって、従来の銀塩系フィルムのカメラを使わなくなり、銀塩系写真フィルム市場がほぼ消滅し、富士フイルムとコニカの2社は基幹事業を失いました。
富士フイルムの講演者によると、2000年に銀塩系写真フィルムの売れ行きが頭打ちした結果、事業が成長しなくなりました。デジタルカメラが普及し、撮影した画像を磁気記録するメモリーに保存し、その画像データをパソコン画面などで見るようになり、写真を現像・焼き増しすることがなくなったからです。若い方の中には、銀塩系フィルムカメラて何?、「写るんです」使い捨てカメラて何?と、思う方が増えています。
富士フイルムの講演者によると、2003年には銀塩系写真フィルム事業の売上げが3分の1も減り、同事業の存続見通しが危うくなりました。この時に、根幹事業である銀塩系写真フィルム・印画紙(紙焼き紙)事業が消滅するとの危機感を社員同士が共有できたのだそうです。2002年から2003年には、富士フイルムは会社の生き残り策を模索したそうです。
富士フイルムは基幹事業の銀塩系写真フィルムなどで培った要素技術を基盤に、その周辺に染みだしていく“土地勘のある”事業を手がけることで、事業内容を変更していくという基本方針を打ち出します。とはいっても実際には、技術面でまったくの飛び地の事業はM&A(合併・買収)を積極的に進めたそうです。技術戦略会議という場で、新規事業の中身を議論したそうです。
例えば、富士フイルムがテレビコマーシャルで宣伝している化粧品・ヘルスケア商品のルーツは、銀塩系写真フィルムに体積の半分も塗布していた“ゼラチン”を要素技術の一つにしたものです。ゼラチンとは、言い換えるとコラーゲンです。写真フィルムの厚さ100ミクロンのベースフィルム上に約20ミクロンの多層膜をコートする技術を持っていました。
さらに、焼き増ししたカラー写真の印画紙のカラー画像が色あせないように、活性酸素をコントロールする要素技術を持っていました。この要素技術から、抗酸化力のあるアスタキサンチンという色素物質(キサントフィル類)の微細粒子が誕生しました。直径20ミクロン以下だと、アスタキサンチンの微粒子は皮膚から浸透するそうです
こうした要素技術を束ねて、化粧品の「アスタリフト」「ナノフィルト」「ルナメア」の製品を産み出しました。しかし、富士フイルムは元々、企業に製品を販売するBtoBビジネスの事業しか手がけていませんでした。通常の化粧品メーカーのように化粧品店への流通・販売経路を持っていなかったのです。このため、当時盛んになり始めたWebサイトを利用するネット販売手法を採用しました。この結果、化粧品の「アスタリフト」のテレビコマーシャルを多く流しています。
同様に、画像診断技術を要素技術として持っていたために、現在は医療・ライフサイエンス事業の中の「病院向けITソリューション」の画像診断システムとして成長しているそうです。画像を蓄えるサーバーなどのハードシステムから高速画像診断エンジンなど、一連のシステムとして病院などに販売しているようです。
急成長し、かつ激戦市場である医療・ライフサイエンス事業の事業利上げ・利益は、富士フイルムは非公開だそうです。ただし、かなり稼いでいるそうです。
富士フイルムは1934年に大日本セルロイドの写真フィルム部の事業を分離・継承して富士写真フイルムを設立・創業して以来の社名「富士写真フイルム」から“写真”をとり、2006年に新社名として“富士フイルム”に変更しました。同時に、ホールディングカンパニー傘下に事業会社を置く形になりました。さらに、この時に富士ゼロックスを傘下に入れています。
富士フイルムのご講演者は、非公開資料などの資料を多く駆使し、かなりの速さで講演されたので、その時のメモは残念ながら不完全なままです。
2006年に社名変更すると同時に、現在の新しい事業を展開するための技術基盤を築くために、同年4月に富士フイルム先進研究所を神奈川県足柄上郡開成町に設けました。
富士フイルムが従来の基幹事業の銀塩系写真フィルム事業から現在の6事業部体制になぜうまく移行できたのかは、今回の講演からは、その成功要因などはあまり分かりませんでした。
日本の富士フイルムとコニカの2社が銀塩系写真フィルム事業から他事業に巧みに無事に事業展開できたのに対して、米国のコダックはうまく事業転換できなかったようです。日本企業の強さの秘密が何かを考えています。
同セミナー主催者は産学連携学会です。会場は東京都文京区の東京医科歯科大学構内です。
このセミナーの参加者の多くは、銀塩系カラーフィルム市場で、一時は世界で数社に入るトップシェアを持っていた富士フイルムが事業転換し、医療事業などの六つの事業分野に事業展開することに成功した経緯に一番関心があったようです。講演後の質疑応答は、この点に集中しました。
日本の富士フイルムとコニカの2社は、銀塩系写真フィルム事業の世界的なトップ企業でした。ところが2000年以降は、デジタルカメラの普及によって、従来の銀塩系フィルムのカメラを使わなくなり、銀塩系写真フィルム市場がほぼ消滅し、富士フイルムとコニカの2社は基幹事業を失いました。
富士フイルムの講演者によると、2000年に銀塩系写真フィルムの売れ行きが頭打ちした結果、事業が成長しなくなりました。デジタルカメラが普及し、撮影した画像を磁気記録するメモリーに保存し、その画像データをパソコン画面などで見るようになり、写真を現像・焼き増しすることがなくなったからです。若い方の中には、銀塩系フィルムカメラて何?、「写るんです」使い捨てカメラて何?と、思う方が増えています。
富士フイルムの講演者によると、2003年には銀塩系写真フィルム事業の売上げが3分の1も減り、同事業の存続見通しが危うくなりました。この時に、根幹事業である銀塩系写真フィルム・印画紙(紙焼き紙)事業が消滅するとの危機感を社員同士が共有できたのだそうです。2002年から2003年には、富士フイルムは会社の生き残り策を模索したそうです。
富士フイルムは基幹事業の銀塩系写真フィルムなどで培った要素技術を基盤に、その周辺に染みだしていく“土地勘のある”事業を手がけることで、事業内容を変更していくという基本方針を打ち出します。とはいっても実際には、技術面でまったくの飛び地の事業はM&A(合併・買収)を積極的に進めたそうです。技術戦略会議という場で、新規事業の中身を議論したそうです。
例えば、富士フイルムがテレビコマーシャルで宣伝している化粧品・ヘルスケア商品のルーツは、銀塩系写真フィルムに体積の半分も塗布していた“ゼラチン”を要素技術の一つにしたものです。ゼラチンとは、言い換えるとコラーゲンです。写真フィルムの厚さ100ミクロンのベースフィルム上に約20ミクロンの多層膜をコートする技術を持っていました。
さらに、焼き増ししたカラー写真の印画紙のカラー画像が色あせないように、活性酸素をコントロールする要素技術を持っていました。この要素技術から、抗酸化力のあるアスタキサンチンという色素物質(キサントフィル類)の微細粒子が誕生しました。直径20ミクロン以下だと、アスタキサンチンの微粒子は皮膚から浸透するそうです
こうした要素技術を束ねて、化粧品の「アスタリフト」「ナノフィルト」「ルナメア」の製品を産み出しました。しかし、富士フイルムは元々、企業に製品を販売するBtoBビジネスの事業しか手がけていませんでした。通常の化粧品メーカーのように化粧品店への流通・販売経路を持っていなかったのです。このため、当時盛んになり始めたWebサイトを利用するネット販売手法を採用しました。この結果、化粧品の「アスタリフト」のテレビコマーシャルを多く流しています。
同様に、画像診断技術を要素技術として持っていたために、現在は医療・ライフサイエンス事業の中の「病院向けITソリューション」の画像診断システムとして成長しているそうです。画像を蓄えるサーバーなどのハードシステムから高速画像診断エンジンなど、一連のシステムとして病院などに販売しているようです。
急成長し、かつ激戦市場である医療・ライフサイエンス事業の事業利上げ・利益は、富士フイルムは非公開だそうです。ただし、かなり稼いでいるそうです。
富士フイルムは1934年に大日本セルロイドの写真フィルム部の事業を分離・継承して富士写真フイルムを設立・創業して以来の社名「富士写真フイルム」から“写真”をとり、2006年に新社名として“富士フイルム”に変更しました。同時に、ホールディングカンパニー傘下に事業会社を置く形になりました。さらに、この時に富士ゼロックスを傘下に入れています。
富士フイルムのご講演者は、非公開資料などの資料を多く駆使し、かなりの速さで講演されたので、その時のメモは残念ながら不完全なままです。
2006年に社名変更すると同時に、現在の新しい事業を展開するための技術基盤を築くために、同年4月に富士フイルム先進研究所を神奈川県足柄上郡開成町に設けました。
富士フイルムが従来の基幹事業の銀塩系写真フィルム事業から現在の6事業部体制になぜうまく移行できたのかは、今回の講演からは、その成功要因などはあまり分かりませんでした。
日本の富士フイルムとコニカの2社が銀塩系写真フィルム事業から他事業に巧みに無事に事業展開できたのに対して、米国のコダックはうまく事業転換できなかったようです。日本企業の強さの秘密が何かを考えています。