どの水準の英語力を目指すのか:
私は英語で話す時には「英語で話す際には文法を正確に守り、中学校1~2年の教科書に出てくる程度の言葉を沢山使って、細部まで十分に伝えるように心がけ、発音を明瞭にして相手に聞き取って貰えるような速度で大きな声であるべき」と、持論として主張してきた。そして、「英語で話す際には頭の中のギアを英語に切り替えて、出来る限り頭に浮かんだ日本文を英訳するような作業はせずに、英語のみで考えるようできれば尚良い」とも言ってきた。だが、忘れてはならないことは、決して俗に言う「ペラペラ」を目指す必要などないということだ。
実は私は「ペラペラと聞くと、何となくただ単に早く話せるだけのことで、文法も何も忘れた薄っぺらな内容を英語で話すこと」のように思えてならないのだ。決してそうなってはならず、品格のある上層にある人たちにも認められるような正しい英語で話すことを目指して貰いたいと思っている。
屡々「単語を並べてみたら通じた」であるとか「兎に角通じれば良いのではないか。どんな英語でも実際に役に立てば良いのではないか」といった主張をされる方に出会う。それはその方の主義主張であるから、私の持論とは違うからといって論争を挑む気にはなれない、兎に角通じることを目指しておられるのだから。そういうことを言われる方は「文法などと固いことは抜きにして、実用性を重んじられたのだろう」から、私の出る幕はないと思う。しかし「文法だけは何とかお守り頂きたいのだ」と、ガリレオのようなことは言っておきたい。
もう20年近く前のことだったと記憶するが、地下鉄の中で私の前に立った2人組の英語での下記のような会話をするのを聞いていた。片方は英語のnative speakerではない外国人で、一方は我が同胞だった。以下は私が聞き取った会話の一部だが、私が偶然に聞いていた間はほぼ一方的に同胞が話していた、如何にも流暢というか「ペラペラ」とも形容したい高速な英語で。
"Every years, I take vacation two months, you know. I go Europe with family , you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."
と、ここまでで残念ながら彼等が下車してしまった。この例文かこれまでに採り上げたことがあるので、ご記憶の向きもあるかも知れない。これは試験問題にある「文中の誤りを正せ」のようなものだ。即ち、単数と複数、過去と現在等々が全く無視されているのだ。「我こそは」と思う自身をお持ちの方は文法の誤りだけではなく、品位のある正しい英語に直すことを試みて頂きたいと思う。試みれば解るのだが、それほど簡単なことではないのだ。
ここで、一寸別な視点からの別の問題ではあるが、我が国(東京近郊だけかも知れないが)に広まっている英語の問題点を挙げておく。それはJR、メトロ、東急線等々の車内放送に聞こえるフランス人のクリステル・チアリの英語である。悲しいまでに品格に乏しくアクセントの付け方もデタラメだ。あの英語を聞いて何処かどのようにおかしいのかお解りにならない方が多いのだ。私が貶したところ、海外に在住する方が一時帰国され、直ぐにそのおかしさを指摘された厳然たる事実もある。私はあの英語の放送は国辱的だとすら考えている。
実は、この英文(なのだろう)の例文をある専門商社の海外担当の常務にお目に掛けたことがあった。彼は一読して「貴方は私の海外出張にいつの間に付いてきたのか。私が、海外で会話をする時の英語はまさしくこれである」と苦笑いを浮かべて言われた。私が経験してきた限りでも、これそのものではないが、こういう種類に属する英語で話す方は少なくなかった。極端に言えば、この種の英語は Pidgin English と呼ばれて軽蔑されるのである。
私が問題にしたいのは、読者の方々がこの英語をどのように受け止められ、どのように評価されるかだと思う。私はこれでも通じていたということ自体が、英語二対する誤った認識であると考えているし、大きな問題点だと思う。私は「この不正確な英語でも会話が成り立つので、そこで満足するか」または「より良い英語というか、さらに高いところを目指すのか」だと思う。お解りの方はおられるだろうが、明らかに文法は無視で、ワードで入力すると疑問ありとされてしまう箇所がいくらでもあるのだ。「でも、通じたのだったら、それで良いじゃないか」という結論を出した方はおられた。
更に重要な問題点は、一度こういう種類の英語で「通じる」と知ると安心してしまい、先ず正しいというか正確な英語の世界には戻れなくなる点だ。即ち「通じれば良いじゃないか」なのだ。これを本当の英語に戻す為には、当人がよほど意識して勉強し直すか、正しい英語とは如何なるものかを心得ている指導者に導いて貰うかであろう。
私が辞めるべきだと主張する多くのおかしな英語の表現の中でも、絶対にお薦めできないのが、この例文でも多用されている“you know”である。これは何度か指摘してきた問題点であり「これを会話の中に挟むことは、貴方が『有能』であることを示すことにはならない」のであるし、自ら一定以下の階層にあることを認めたことにもなるのだ。
私が1945年にGHQの秘書の方に英語で話すことを教え込まれた際に「如何に言葉に詰まっても“you know”と言ってはならない」と厳しく指導されたのだった。だが、アメリカからやってくる元はMLBの野球選手たちには、南米出身の連中も含めて、これを多用する者が多い。即ち、自分がそういう階層に属すると問わず語りしているのだ。
敢えて極端とも思える指摘をすれば、“you know”を多用するアメリカ人に出遭ったならば、その人物は「少なくとも上流階層には属しておらず、そういう程度の教養しか持ち合わせていない」と断定して誤りではないのだ。決して、アメリカ人も使った表現だからなどと誤解して真似をしないことが。
私が上記の語りの中で最も興味深く受け止めたのが“children become big”の一節だった。即ち、この話し手は明らかに「成長した」と言いたかったのだが、“grow”という単語をご存じなかったか、あるいは咄嗟に思い浮かばずに“become big”、即ち「大きくなった」の直訳で逃げたのかも知れない。善意で解釈すれば「異なった言い回しで話を進める表現力を備えておられた」かのようでもある。私は文章でも会話でも、このような異なった言い回しをすることができることは重要だと思っている。だが、これは同時に語彙(どれほど沢山の単語を知っているか)の問題でもある。
貶してから褒めたような論旨の展開となったが、我が国の優れた英語の使い手と言われている方が話される英文の中にも、この例文ような文法に問題があることが多いと、経験上から言えるのだ。私はこの辺りに、我が国の英語教育における「文法重視」の成果に疑問を呈したいのだ。この問題点は「カタカナ語のほとんどが文法の原則を忘れて、複数や過去や現在の使い方を欠いているものが多い」ことからも明らかだと考えている。
結論を言えば「通じれば良い」といった低次元の英語力で満足するか、「いや、私は飽くまでも文法等の原則を守った品格の高い英語を目指して支配階層の仲間入りをする」と言われるのかは人それぞれの好みであり狙いであるから、私が介入することではないと思っている。しかしながら、上記の例文のような英語はお勧めしたくないし、英語を母国語とする人たちに尊敬されることはないことだけは保証しておく。
私はそのような教育と教養の程度を疑われるような英語を話すことがなくなるように英語を教えるのが「英語教育に携わる方の義務」であると思っているのだ。しかし、中々そのような結果が出ていない辺りに、我が国の学校教育における英語の大きな問題点であり泣き所だと思っている。
失礼を顧みずに言えば、そういう問題点を抱え込む教え方の中でも、英語の先生方のカタカナ書きのような発音にも問題点があると思っている。そういう根拠は、私が実務の施米で接してきた多くの方々の発音には余りにも「外国人離れ」とでも言うか、英語ではないローマ字読みそのものが普通に認められたからである。
お断りしておくと、これは過去に何度か採り上げた話題であり、昨年にもそうしている。今回はそれに加筆訂正した新版である。
私は英語で話す時には「英語で話す際には文法を正確に守り、中学校1~2年の教科書に出てくる程度の言葉を沢山使って、細部まで十分に伝えるように心がけ、発音を明瞭にして相手に聞き取って貰えるような速度で大きな声であるべき」と、持論として主張してきた。そして、「英語で話す際には頭の中のギアを英語に切り替えて、出来る限り頭に浮かんだ日本文を英訳するような作業はせずに、英語のみで考えるようできれば尚良い」とも言ってきた。だが、忘れてはならないことは、決して俗に言う「ペラペラ」を目指す必要などないということだ。
実は私は「ペラペラと聞くと、何となくただ単に早く話せるだけのことで、文法も何も忘れた薄っぺらな内容を英語で話すこと」のように思えてならないのだ。決してそうなってはならず、品格のある上層にある人たちにも認められるような正しい英語で話すことを目指して貰いたいと思っている。
屡々「単語を並べてみたら通じた」であるとか「兎に角通じれば良いのではないか。どんな英語でも実際に役に立てば良いのではないか」といった主張をされる方に出会う。それはその方の主義主張であるから、私の持論とは違うからといって論争を挑む気にはなれない、兎に角通じることを目指しておられるのだから。そういうことを言われる方は「文法などと固いことは抜きにして、実用性を重んじられたのだろう」から、私の出る幕はないと思う。しかし「文法だけは何とかお守り頂きたいのだ」と、ガリレオのようなことは言っておきたい。
もう20年近く前のことだったと記憶するが、地下鉄の中で私の前に立った2人組の英語での下記のような会話をするのを聞いていた。片方は英語のnative speakerではない外国人で、一方は我が同胞だった。以下は私が聞き取った会話の一部だが、私が偶然に聞いていた間はほぼ一方的に同胞が話していた、如何にも流暢というか「ペラペラ」とも形容したい高速な英語で。
"Every years, I take vacation two months, you know. I go Europe with family , you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."
と、ここまでで残念ながら彼等が下車してしまった。この例文かこれまでに採り上げたことがあるので、ご記憶の向きもあるかも知れない。これは試験問題にある「文中の誤りを正せ」のようなものだ。即ち、単数と複数、過去と現在等々が全く無視されているのだ。「我こそは」と思う自身をお持ちの方は文法の誤りだけではなく、品位のある正しい英語に直すことを試みて頂きたいと思う。試みれば解るのだが、それほど簡単なことではないのだ。
ここで、一寸別な視点からの別の問題ではあるが、我が国(東京近郊だけかも知れないが)に広まっている英語の問題点を挙げておく。それはJR、メトロ、東急線等々の車内放送に聞こえるフランス人のクリステル・チアリの英語である。悲しいまでに品格に乏しくアクセントの付け方もデタラメだ。あの英語を聞いて何処かどのようにおかしいのかお解りにならない方が多いのだ。私が貶したところ、海外に在住する方が一時帰国され、直ぐにそのおかしさを指摘された厳然たる事実もある。私はあの英語の放送は国辱的だとすら考えている。
実は、この英文(なのだろう)の例文をある専門商社の海外担当の常務にお目に掛けたことがあった。彼は一読して「貴方は私の海外出張にいつの間に付いてきたのか。私が、海外で会話をする時の英語はまさしくこれである」と苦笑いを浮かべて言われた。私が経験してきた限りでも、これそのものではないが、こういう種類に属する英語で話す方は少なくなかった。極端に言えば、この種の英語は Pidgin English と呼ばれて軽蔑されるのである。
私が問題にしたいのは、読者の方々がこの英語をどのように受け止められ、どのように評価されるかだと思う。私はこれでも通じていたということ自体が、英語二対する誤った認識であると考えているし、大きな問題点だと思う。私は「この不正確な英語でも会話が成り立つので、そこで満足するか」または「より良い英語というか、さらに高いところを目指すのか」だと思う。お解りの方はおられるだろうが、明らかに文法は無視で、ワードで入力すると疑問ありとされてしまう箇所がいくらでもあるのだ。「でも、通じたのだったら、それで良いじゃないか」という結論を出した方はおられた。
更に重要な問題点は、一度こういう種類の英語で「通じる」と知ると安心してしまい、先ず正しいというか正確な英語の世界には戻れなくなる点だ。即ち「通じれば良いじゃないか」なのだ。これを本当の英語に戻す為には、当人がよほど意識して勉強し直すか、正しい英語とは如何なるものかを心得ている指導者に導いて貰うかであろう。
私が辞めるべきだと主張する多くのおかしな英語の表現の中でも、絶対にお薦めできないのが、この例文でも多用されている“you know”である。これは何度か指摘してきた問題点であり「これを会話の中に挟むことは、貴方が『有能』であることを示すことにはならない」のであるし、自ら一定以下の階層にあることを認めたことにもなるのだ。
私が1945年にGHQの秘書の方に英語で話すことを教え込まれた際に「如何に言葉に詰まっても“you know”と言ってはならない」と厳しく指導されたのだった。だが、アメリカからやってくる元はMLBの野球選手たちには、南米出身の連中も含めて、これを多用する者が多い。即ち、自分がそういう階層に属すると問わず語りしているのだ。
敢えて極端とも思える指摘をすれば、“you know”を多用するアメリカ人に出遭ったならば、その人物は「少なくとも上流階層には属しておらず、そういう程度の教養しか持ち合わせていない」と断定して誤りではないのだ。決して、アメリカ人も使った表現だからなどと誤解して真似をしないことが。
私が上記の語りの中で最も興味深く受け止めたのが“children become big”の一節だった。即ち、この話し手は明らかに「成長した」と言いたかったのだが、“grow”という単語をご存じなかったか、あるいは咄嗟に思い浮かばずに“become big”、即ち「大きくなった」の直訳で逃げたのかも知れない。善意で解釈すれば「異なった言い回しで話を進める表現力を備えておられた」かのようでもある。私は文章でも会話でも、このような異なった言い回しをすることができることは重要だと思っている。だが、これは同時に語彙(どれほど沢山の単語を知っているか)の問題でもある。
貶してから褒めたような論旨の展開となったが、我が国の優れた英語の使い手と言われている方が話される英文の中にも、この例文ような文法に問題があることが多いと、経験上から言えるのだ。私はこの辺りに、我が国の英語教育における「文法重視」の成果に疑問を呈したいのだ。この問題点は「カタカナ語のほとんどが文法の原則を忘れて、複数や過去や現在の使い方を欠いているものが多い」ことからも明らかだと考えている。
結論を言えば「通じれば良い」といった低次元の英語力で満足するか、「いや、私は飽くまでも文法等の原則を守った品格の高い英語を目指して支配階層の仲間入りをする」と言われるのかは人それぞれの好みであり狙いであるから、私が介入することではないと思っている。しかしながら、上記の例文のような英語はお勧めしたくないし、英語を母国語とする人たちに尊敬されることはないことだけは保証しておく。
私はそのような教育と教養の程度を疑われるような英語を話すことがなくなるように英語を教えるのが「英語教育に携わる方の義務」であると思っているのだ。しかし、中々そのような結果が出ていない辺りに、我が国の学校教育における英語の大きな問題点であり泣き所だと思っている。
失礼を顧みずに言えば、そういう問題点を抱え込む教え方の中でも、英語の先生方のカタカナ書きのような発音にも問題点があると思っている。そういう根拠は、私が実務の施米で接してきた多くの方々の発音には余りにも「外国人離れ」とでも言うか、英語ではないローマ字読みそのものが普通に認められたからである。
お断りしておくと、これは過去に何度か採り上げた話題であり、昨年にもそうしている。今回はそれに加筆訂正した新版である。