嘗ては超一流だった製紙の技術者と懇談した:
この我が国の大手製紙会社の現場の技術者・I氏とは1988年9月にカナダからアメリカを約2週間、W社の工場を巡回して技術指導をして頂いた。当時、W社はこの我が国のメーカーと技術提携の契約を結んでいた。この契約を知った人々は指導するのがW社だと勝手に解釈していたようだった。だが、実態はその正反対(近頃流行の「真逆」ではないよ)だった。
最初に訪れたカナダの新設工場の最新鋭マシンが思うような結果を出してくれないので、W社が契約に従って援助というか指導を依頼したのだった。そこでI氏他2名の技術者が派遣されたのだった。因みに、I氏は私と同年齢だったが、高卒で入社されたのでその時点で経験が37年の同社が選び抜かれた現場の最優秀の課長さんだった。
I氏は初日は現場で隈無く機械を見回られただけで一言も発せずにホテルに戻られた。勿論、何処に如何なる問題点があるかは見抜いておられた。彼は「あの場で言おうと思えば言えたが、工場側にその技術に誇りと自信を持って操業しておられるのだろうから、外部の者がいきなり批判めいたことを言うのは非礼に当たると思った。それで明日の会議の場で疑問点を質してから語りたいと思った」と静かに語られた。
そして、翌日には(多額のコストがかかるのだが)マシンを止めて現場で語り合いその後に会議室での質疑があって、I氏は見事に問題の解決法を提示して解決して見せ、実際に解決された。実は、このフィンランド製の新鋭マシンをI氏は見たことがなかったのだった。そして、その晩に下記のように言われて慨嘆された。
「我々が昭和26年に入社した頃には皆が一所懸命に勉強して製紙の技術を学びながら機械と対話して、何処をどうやって運転すれば最高の紙が出来るかの技術を試行錯誤で身につけていった。それは、長い年月をかけて技術と知識を蓄積して行く気長な道のりだった。マシンに問題か欠陥が見つかれば、現場で皆が集まって協議し、如何にして修繕してより良い機械に改善していくかに努めたものだった。
だが、今日カナダまでやって来てこの新鋭マシンを見れば、遺憾ながら、既に我々が長い年月を費やして蓄積してきた技術とノーハウの大部分がマシンの設計にはそのような能力として組み込まれているのを発見した。実は、この点が我々現場を預かるものが最も懸念してきたことで、何時の日か我々の技術と経験が不要になるような生産設備が現れて、我々の職を脅かすのではないかと語り合ってきた。
今回の初めてのアメリカ(所在地はカナダだが、アメリカの会社だ)の製紙工場の訪問で、我々が危惧してきたことが既に具体化されていたと知った。衝撃的だった」
と言われたのだった。
何でこの回顧談を長々と述べてきたかと言えば、昨日、I氏が私に電話を下さったのだった。それは、私が年賀状に15年の前半に大病を患って60日も入院していたと書いたので、心配しておられたからだった。何回か電話をされたそうだが、当方が不在だったか、ナンバーデイスプレー方式なので知らぬ番号からの電話には出なかった為かも知れなかった。
そこで、I氏と約1時間ほど久し振りに語り合ったのだが、彼は現在の世界的な紙パルプ産業の低迷を嘆かれる一方で、88年に危惧された機械(=生産設備と言って良いだろう)の飛躍的な進歩で、益々現場の人たちが鍛え上げてきた、蓄積され磨き抜いてきた技術はほぼ完全に不要になり、ロボットであるとAIに置き換えられていく時代の到来を嘆き且つ歓迎されたと共に「お互いに良き時代を過ごして良い時に引退したものだった」と回顧された。全く同感だった。
話が偶々神戸製鋼の件に及ぶと、彼は「少なくとも製紙の現場ではそのような改ざんをすることは不可能で、何処か本社機構の中ででも行われたのではないのか。我々は常にお客様が求めておられる品質よりも上となるようなスペックを設定して生産することを心掛けてきたので、想像も出来ないことだ」と指摘された。
カナダの工場では工場長以下と質疑応答の会議をした際に、私が未だに忘れられない質問が出て、I氏がそれこそ見事な答えを出されたので、それを紹介して終わろう。質問は「機械メーカーから提供された操業のマニュアルのここに記載されている通りにマシンを設定しても、どうしてもその通りの品質が達成できない。この解決策は?」だった。
I氏の答えは、通訳している方が感動してしまうようなことだった。「所期の結果が出てこないような理論は単なる仮説に過ぎないと思って下さい。そこで思い切ってマニュアルを忘れて、自分たちの考えて色々と設定を変えて試みて下さい。そうすれば自ずと解決策が出てくるものです」だった。余談だが、「仮説」=hypothesisという言葉を知っていて良かったと思った。
余談だが、この話を本社に戻ってから、W社引退後に大学院大学の教授になったMBAの元の上司(現在は友人)に語ったところ、「素晴らしい」と感激して早速打ち出して書斎の壁に貼りだしたものだった。
この我が国の大手製紙会社の現場の技術者・I氏とは1988年9月にカナダからアメリカを約2週間、W社の工場を巡回して技術指導をして頂いた。当時、W社はこの我が国のメーカーと技術提携の契約を結んでいた。この契約を知った人々は指導するのがW社だと勝手に解釈していたようだった。だが、実態はその正反対(近頃流行の「真逆」ではないよ)だった。
最初に訪れたカナダの新設工場の最新鋭マシンが思うような結果を出してくれないので、W社が契約に従って援助というか指導を依頼したのだった。そこでI氏他2名の技術者が派遣されたのだった。因みに、I氏は私と同年齢だったが、高卒で入社されたのでその時点で経験が37年の同社が選び抜かれた現場の最優秀の課長さんだった。
I氏は初日は現場で隈無く機械を見回られただけで一言も発せずにホテルに戻られた。勿論、何処に如何なる問題点があるかは見抜いておられた。彼は「あの場で言おうと思えば言えたが、工場側にその技術に誇りと自信を持って操業しておられるのだろうから、外部の者がいきなり批判めいたことを言うのは非礼に当たると思った。それで明日の会議の場で疑問点を質してから語りたいと思った」と静かに語られた。
そして、翌日には(多額のコストがかかるのだが)マシンを止めて現場で語り合いその後に会議室での質疑があって、I氏は見事に問題の解決法を提示して解決して見せ、実際に解決された。実は、このフィンランド製の新鋭マシンをI氏は見たことがなかったのだった。そして、その晩に下記のように言われて慨嘆された。
「我々が昭和26年に入社した頃には皆が一所懸命に勉強して製紙の技術を学びながら機械と対話して、何処をどうやって運転すれば最高の紙が出来るかの技術を試行錯誤で身につけていった。それは、長い年月をかけて技術と知識を蓄積して行く気長な道のりだった。マシンに問題か欠陥が見つかれば、現場で皆が集まって協議し、如何にして修繕してより良い機械に改善していくかに努めたものだった。
だが、今日カナダまでやって来てこの新鋭マシンを見れば、遺憾ながら、既に我々が長い年月を費やして蓄積してきた技術とノーハウの大部分がマシンの設計にはそのような能力として組み込まれているのを発見した。実は、この点が我々現場を預かるものが最も懸念してきたことで、何時の日か我々の技術と経験が不要になるような生産設備が現れて、我々の職を脅かすのではないかと語り合ってきた。
今回の初めてのアメリカ(所在地はカナダだが、アメリカの会社だ)の製紙工場の訪問で、我々が危惧してきたことが既に具体化されていたと知った。衝撃的だった」
と言われたのだった。
何でこの回顧談を長々と述べてきたかと言えば、昨日、I氏が私に電話を下さったのだった。それは、私が年賀状に15年の前半に大病を患って60日も入院していたと書いたので、心配しておられたからだった。何回か電話をされたそうだが、当方が不在だったか、ナンバーデイスプレー方式なので知らぬ番号からの電話には出なかった為かも知れなかった。
そこで、I氏と約1時間ほど久し振りに語り合ったのだが、彼は現在の世界的な紙パルプ産業の低迷を嘆かれる一方で、88年に危惧された機械(=生産設備と言って良いだろう)の飛躍的な進歩で、益々現場の人たちが鍛え上げてきた、蓄積され磨き抜いてきた技術はほぼ完全に不要になり、ロボットであるとAIに置き換えられていく時代の到来を嘆き且つ歓迎されたと共に「お互いに良き時代を過ごして良い時に引退したものだった」と回顧された。全く同感だった。
話が偶々神戸製鋼の件に及ぶと、彼は「少なくとも製紙の現場ではそのような改ざんをすることは不可能で、何処か本社機構の中ででも行われたのではないのか。我々は常にお客様が求めておられる品質よりも上となるようなスペックを設定して生産することを心掛けてきたので、想像も出来ないことだ」と指摘された。
カナダの工場では工場長以下と質疑応答の会議をした際に、私が未だに忘れられない質問が出て、I氏がそれこそ見事な答えを出されたので、それを紹介して終わろう。質問は「機械メーカーから提供された操業のマニュアルのここに記載されている通りにマシンを設定しても、どうしてもその通りの品質が達成できない。この解決策は?」だった。
I氏の答えは、通訳している方が感動してしまうようなことだった。「所期の結果が出てこないような理論は単なる仮説に過ぎないと思って下さい。そこで思い切ってマニュアルを忘れて、自分たちの考えて色々と設定を変えて試みて下さい。そうすれば自ずと解決策が出てくるものです」だった。余談だが、「仮説」=hypothesisという言葉を知っていて良かったと思った。
余談だが、この話を本社に戻ってから、W社引退後に大学院大学の教授になったMBAの元の上司(現在は友人)に語ったところ、「素晴らしい」と感激して早速打ち出して書斎の壁に貼りだしたものだった。