新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月12日 その3 本日で良かったこと

2017-11-12 18:42:40 | コラム
体調は最悪だったのだが:

自律神経失調症は38日目となり、一向に復調してこない。それだけならまだしも、今日12日には数日前から出てきた蓄膿症のような状態が悪化し、朝から鼻をかみ通しでボーッとしていたかと思えば、毎度のことだが声がかすれてくるし、ドライアイでこの画面も見にくくはなるし、食事をしても味がないだけではなく、10日に受けたブロック注射の効果が早くも切れ始めてきたのだった。最悪である。

それでも負けてなるかと、昼には菓子パン類を滅茶食いして何とか体力と気力を維持して過ごしていた。その良いことがない中でも、たった一つ良いことがあった。それは、今週のプロゴルフのトーナメントでは、男女ともに我が国のプロが韓国人のゴルファーを抑えて優勝してくれたことだった。快哉を叫んでいた。

私は以前に何十億~何百億円も稼ぎまくる韓国の女子プロを締め出せばとの暴論!?を吐いたが、先頃の文在寅大統領がトランプ大統領との晩餐会で見せた無礼千万な振る舞いを見れば、男子プロもあの見返りに我が国のトーナメントへの参加に何か厳しい条件でも付けて良いのではとも言いたくなってきた。最早、あの国に良い顔をする必要などないのではないか。

この調子では、明日は何処の科のお医者様に診て頂くべきかに頭を悩ましている状態だ。

11月12日 その2 和製英語(造語)とカタカナ語 #1

2017-11-12 09:57:13 | コラム
カタカナ語排斥論者の弁:

実はこのカタカナ語排斥の議論は2008年から正式に纏め始めたのだが、それ以降PCを3度入れ替えた間に今回ここに掲載する記念すべき(?)第1回目を何処かで消してしまったのだった。それが今回偶然にも発見できたので、自分の記録の為にもここに採り上げる次第。ご一読賜れば幸甚である。

和製英語(造語)とカタカナ語 #1:

私はこの手の言葉が好みではないが、面白いとは感じている。その中には漢字・平仮名・片仮名・ローマ字と多くの言葉を含んでいる日本語の融通無碍な点というか素晴らしさを見出すとともに、新たな言葉を創造してきた先人と現代人の知恵と創造性を見る思いがするのだ。

その一方で、そういう言葉が日本語と日本人の英語に対して必ずしも良い影響を与えていないことも危惧する。すなわち、時としてこういう言葉が本当の英語だと錯覚を起こす人がいる例を何度も見てきたからである。さらに本当は英語ではないのにも拘わらず、すでに日本語というかカタカナ語として戸籍を得てしまっているものが多く、罪なき一般人に、「これは英語だろう」と思わせるだけの迫力があるのだ。

その点にも疑問を感じてしまう。私はカタカナ語を見たら全て疑っても良いと思っている。これらを使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても構わないと思うが、そういう言葉であるという認識だけは持っていて欲しい。

何故この主張をするかと言えば、言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて、英語として使ってしまう結果になる点を好ましくないと考えているからである。

この際、何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたい。そこで、その分類であるが、私は“和製英語=造語”、“ローマ字式発音”、“言葉の誤用”の3種類に分けていくことにする。

和製英語=造語:
此処には素晴らしい造語もあるが、時には何とも不可思議で且つ面白いなと興味を引く例もあって、それを発見するのが楽しみである。

本論に入る前にその面白い例を挙げてみる。20年前まで住んでいた藤沢市に”Hand Made Coffee Shop”という看板を掲げた小さなコーヒー屋さんがあった。これは「手作りのコーヒーを売る店」で喫茶店ではないことは外から見ても直ぐに解った。だが、生半可に横文字になっているので違和感を覚えた。

何故かと言えば、これでは「コーヒー・ショップ」を手作りしたことになると思ったのである。では、これを英語にしてみようと思ったが、意外に難事業だった。おそらくこの店主が言いたいことは、「コーヒー豆を自らの手で炒めて挽いていること」なのだろうが、これを全部訳すと”We roast and grind coffee beans ourselves here.”とでもなるのだろうか。だが、こんなに面倒なことを言わなくて”Hand Made Coffee”だけで十分だったと思う。

因みに、スターバックスもタリーズも”handcrafted”という言葉を使って「手作り」を表している。私ならば大きく”Handcrafted Coffee”という看板を掲げ、その前に小さく”Enjoy our”と書いておくだろう。

私が見た限りでは少なくともアメリカでは、「コーヒー・ショップ」が自ら店名に”Coffee Shop”を名乗ることが少なく、何か別の固有名詞を名乗っているが普通だからである。ホテルでは”Coffee Shop”と言えば”Main Dining”ではなくて、軽い食事を取れる食堂を指すことが多く、そこには概ね何らかの固有名詞が店名としてつけられている。

上記のアメリカのチェーンでは看板にはCoffeeまでで、Shopとはなっていない。その違いがここにも現れていて、この手作り店でも几帳面にコーヒー・ショップと名乗って正確且つ万全を期しているのだろうと思う。これぞ文化の違いといいたいのだが。

会社名にしたところで、紙パだけを例にとってもトップ10に入るような大手で”Paper”を社名に入れているのは世界最大手のアメリカの”International Paper Companyくらいのもので、他社の例を見ても北欧の”StoraEnso”、アメリカの”Weyerhaeuser Company“、 Georgia-Pacific”、”Kimberly-Clark”、”MeadWestvaco”、”NewPage”、ノルウエーの”Norske-Skog”等々である。一方、我が国で製紙と入っていない社名の製紙会社があるか?

そこで、思いつくままに例を挙げていくが、順序不同であることをお断りしておく。なお、自動車と野球用語は余りにも多いので、別途取り上げる。




中国と阿里巴巴集団

2017-11-12 08:29:20 | コラム
非スマートフォン世代の嘆き:

昨日だったか、TBSを見ていると、この中国のIT集団であるアリババ(Alibaba、阿里巴巴集団)関連のニュースで今更ながら驚かされたのだった。それは、この年齢になって「何を今更」と思って手を出そうともしていないスマートフォンが人民に広く普及している現象だった。中国にはもう10年近くも行っていないので実態を知る由もないが、スマートフォンが非常に実用的に使われていると知らされたのだった。

先ずは、先日採り上げた都内で随所に見かける「コミュニティ・サイクル」と同様な概念で方々に自転車が用意されていて、登録しているユーザーは駐輪している自転車の鍵をスマートフォンで開けて自在に利用しているのだった。その実例として出てきたのが、朝の出勤の際にバス停まで利用して、降りたところにある自転車で勤務先まで利用した後は駐輪場に置いてくるという利用法だった。帰りはこれと同じ方法で利用する。

何のことはない利用法だが、行く先々に駐輪場を設けられる土地の広さが、私には印象的だった。北京などはそもそも自転車専用レーンがあり圧倒的多数の自転車が走っている都市であるから、我が国のように歩道を走行すると道交法17条違反のような懸念もないのだろうし、駐輪場の場所も広く取れるのだろうかなどと考えていた。

次に出てきたのが「アリペイ」(=Alipay)だった。我が国でも既にスマートフォンを使った決済が実行されているようだし、記憶違いでなければ鉄道の自動改札を通過も出来ているようだと思う。正直に感想を言えば「イヤらしい時代だ」と捉えていた。即ち、遠からぬ将来に「スマートフォンを持たねば生活できない時代がやってくるのは間違いない」と思わせてくれる現象だ。

そのアリペイとは勿論中国ではスマートフォンで買い物が出来るような仕組みが普及しているというニュースだった。それこそ屋台のように見える八百屋で少額の買い物をしても、「そこに掲示されたQRコードのようなものを読み取って支払う金額をスマートフォンに打ち込んで終わり」なのである。買い物客に尋ねると「財布も現金も不要なので持ち歩かない便利なシステム」と礼賛。次には高齢の女性に「スマートフォンは使えないので、現金で払う」と言わせた。

店主には「現金を扱わずに済むだけではなく釣り銭の用意をせずに済むので便利だ」と言わせた。中国では今や8億人がアリペイを利用していると報じていたから、総人口の60%がスマートフォンを使う決済をしていることになる。白髪三千丈の国だから、何処まで信じるべきか知らないが、非スマートフォン世代はただひたすら感心して眺めていたのだった。

確かに我が国では若者世代のみならず中高年にも遍くスマートフォンが普及していると思う。だが、車内なのどでのぞき見すると、彼らはゲームに熱中していたり、多分LINEとかいうものだろうが、早送りして次々と短い文章を読んでいるのに出会う。明らかに「電話」ではなくなった時代に入ったと超後期高齢者にも解る。

これとは対照的なのが、我が住まいの一帯に巣食うアジアとイスラム系の者どもの使い方で、彼らの全部でなければ大部分はハンズフリー通話というのか何かしらないが、常にイアフォンを使って喚いている。彼らにあの何万円をもする機器を買い、尚且つ毎月の支払いをする余裕が何故あるのかが不思議に思えてならない。彼らに自国の銀行口座を使って決済するほどの資力があるとも思えないのだが。

話がやや逸れたが、私は中国のあのICT化の普及振りを見せつけられては、侮るベカらざる力を付けた国になっていたのかと、遅まきながら少しだけ認識させられたのだった。俗に言う「仕込みか」と少しは疑ったが、そこまでのことではあるまいと思った。

最新のiPhone10だったかは10万円もするというではないか。そんな出費をするよりも、老い先短い人生である以上、家内と温泉にでも行く方がマシなお金の使い方だと思っているのだが。負け惜しみかな?