新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月9日 その2 「インバウンド様」禍への対策

2024-05-09 15:18:12 | コラム
「オーバーツーリズム」の事である:

先ほど、昼食の時も点けっぱなしにしてあったテレビで「オーバーツーリズム」の負の面を、柳沢秀夫(元NHKの論説だったかの人物で偉そうな言い方をするのが鬱陶しい)を始めとするコメンテーターが、色々と語っておられるのが聞こえた。その分野の専門機関の長も卓見を述べておられた。「なるほど、ご尤も」という事を述べておられたが、世界20ヶ国をインバウンドしてきた私の見方を語ってみたくなった。

第一は我が国が余りにも「良い国」である事:
「世界にこれほど西欧の文化文明と我が国古来の文化と仕来りが見事に綺麗に融合し、治安が良くて何処に行っても安全で、街が綺麗で清潔で、食べ物が上手くて、人々が優しくて親切な国は他にない」のは間違いないと言える。だが、何事にも「コインの裏側」があるもので、その長所と美点に付け込まれているのも間違いないと思っている。この点には別途機会があれば詳細に触れることにする。

第二は「余りに多くの国民が国人慣れしていない国」である事:
これは「外国人に親切である事」の裏返しである。私は曲がりなりにも個人の旅行(=出張)を主体にしてパック旅行でも合計20ヶ国を訪問してきた。だが、何処に行っても我が国程外国人に気を配って(気遣いをして)親切・丁寧に扱う国などないのだ。

考えてもご覧なさい「都内でバスに乗れば車内でも停留所にも日本語の他に英語、中国語、韓国語(ハングル)の表示があるのだ。スペイン語の国から来た人は英語で我慢なさって下さいとでも言うのかな。こんな親切丁寧な国が他に何処にあるのかと思う。アメリカに行ってご覧なさい。タクシー乗って英語が通じれば「やったー。ラッキー」と万歳したくなる始末だ。

地方に行くと、未だに「外人さん」などと語尾に敬称を付けて「ここまで来て下さった事」に謝意を表しておられる傾向が残っている。だから親切にしてあげねばならないと努力されている。その遠来のお客様に対して「ゴミを捨てるな」とか「勝手に他人の敷地内に入るな」などと真っ向から注意するような僭越な行為を避けて我慢しておられるのではと、私は考えている。

尤も、言うべき事を言おうにも、我が国の英語教育では「こんな難しいことがスラスラと言えるようになる教え方が出来ていない」という別の問題もあると思う。だが「こら。何をする」であるとか「勝手に私の家に入ってくるな」辺りを、血相を変えて言えば、それが日本語であっても剣幕で解るはずだ。

私は1999年にフィレンツェでは新聞紙で顔を隠して迫ってきたジプシーの少年たちを「うるさい。邪魔するな」と日本語で、大声で一喝したら直ぐに退散した。そんなものなのだ。何も無理をして英語を使う必要などない。「親切にする事」と「言うべき事を言う」は別な事であると認識してかかって良いと思う。彼等インバウンド様たちは「自分たちの行動が礼儀正しくない」とは知らないのだと思っていて良いだろう。堂々と注して良い。

第三は「インバウンド様たちは圧倒的に個人旅行が多い事」だと見ている:
私はヨーロッパや初めて行ったタイ国などは、現地ではガイドが付くパック旅行を利用した。これには言葉の問題もあるが、現地の文化や習慣や事情に疎く、土地勘も無い以上、慣れたガイドさんの指示に従うのが安全だと認識しているから。彼等は「しても良い事、いけない事、何処が安全で何処が危険か等々を細かくガイドしてくれるし、安全なように案内してくれる」のが有り難いからである。

ところが、インバウンド様たちの羽目を外し、箍が外れたような危険な行動や無作法さを見せられると、案内役の姿はテレビの画面からは見えてきた事がないのだ。彼等は「何処まではでやって良くて、何処から先は駄目」という制約を知らない個人の旅行だからこそ、勝手し放題なのではないのかな。「ゴミを捨てるな。自分で持ち帰れ」くらいは、日本にやってくる機内か、空港の入管で心得て置くべき事柄を記載したメモでも渡せばと思う。

もう一つ考えられる手法は「我が国ではこういう礼儀作法が常識である」という情報を、世界各国に向けて流すように努めておく事だ。それでなくても「知られざる国」であるのだから、宣伝広報活動は重要なのである。何度も指摘した事で「日本は中国の一部だそうだが、何処の辺りか」と訊かれるとか、「日本は何処か極東の方にある国だったかな」などと何度も言われたものだった。でも、反対に「アメリカのロードアイランド州は何処にあるか」と尋ねられ、地図で指させるかという事。

第四は「入国されたインバウンド様たちはどのような階層の方々か」という事:
私はアメリカと我が国を22年も往復していたし、ヨーロッパも東南アジアの諸国も出張も、個人の旅行も、パック旅行も経験してきた。特にアメリカで大手企業の社員としてアメリカの企業社会を支配している階層の人たちの家庭にも入る経験もした。韓国で中小の財閥のオウナー社長さんの一家と親交があった。従って、各国を支配している方々と知り合える立場にあったのである。

だが、現実に都内でも、箱根や熱海のような観光地で実際に見てきた人たちや、京都や鎌倉のような有名な観光名所に殺到している人たちの人品骨柄、着衣を観察してみれば、「決して社会の上層に入る訳ではないのでは」と決めつけたくなる人たちの方が多いように見えるのだ。その連中は我が国のような安全で綺麗で親切な環境に接して、自制心を失って、開放感に浸りすぎた結果、礼儀作法を守る事を忘れたのではないのかと疑っている。

第五は「海外向けに徹底的に『日本国とその文化』の広報活動を展開する事:
先ほどのテレビでもコメンテーターが指摘しておられたが「我が方は入ってこられる方々の制限や、品定めをしてお断りする事は出来ないのである。そこが問題であってオーバーツーリズム(私は「インバウンド禍」としたが)を起こしているのだ」という問題点を取り上げておられた。

私が考え得る対策は「限界まで全世界に向けての広報宣伝活動に注力して『日本とはこういう国である。そうと認識してから訪日願いたい』と徹底的に遍く全世界にご承知置き願う事ではないのか」と考えている。インターネットでも(SNSも?)活用できるのではないか。

日本語と英語の違いを語ってみよう

2024-05-09 09:31:32 | コラム
異文化の国の言葉なのだ:

ここに述べていく事柄はある程度は回顧談の範疇に入るかと思う。だが、少しでも英語というかEnglishを真剣に学ぼうという方の役には立つと思う次第。

*英語と日本語では考え方が違う:
1970年代の冬の出来事だった。シアトルの位置は日本よりも北にある(緯度が高いという意味)のだが、暖流が回ってくるので滅多に雪は降らないのだ。そのシアトルで大雪が降って、泊まっていたホテルの屋外に設置されたガラスのエレベーターが凍り付いて動けなくなった。そこでホテル側が「従業員用のサービスエレベーターを使って欲しい」と掲示を出した。だが、その図では何処にあるのかが解りにくかった。

すると、「これでは解らない。何処にあるのか」と清掃中の女性に尋ねた人がいた。答えが“Go down the hall way as far as you can go. Then, you will find the elevator on your left hand side.”だった。訳せば「この廊下を突き当たりまで行けば、左側にあります」なのだが、考え方の違いが出ていて面白かった。それは「突き当たり」を「行けるだけ行く」としたことだったし、「左側」が「左手の側」と何を基準に左というかを明らかにしている点。

この際に別の人は「突き当たりまで」即ち「廊下の端まで歩く」を“walk the length of the hall way“と表現した。 この特徴は「両方とも和文英訳して見よ」という問題を出されれば「結構面倒だな」と思うようなことを、平明な単語だけを使って表現してしまっているのが、日本語とは考え方違う英語の特徴だと思っている。

この辺りの違いを、私が最初に教えられたGHQの秘書のHelen波高言って教えられた。それは「これから言いたい事を先ず日本語で思い浮かべてから、英語に訳そうとしてはいけない。記憶にある表現を思い浮かべてから、それを使って文章にしようと試みなさい」だった。これを身につけてあれば、上記の「如何にも本格的な英語のような」表現が出来て格好が良いと思うのだ。要点は「考え方の違いに慣れておこう」なのである。

*American EnglishとKing’s Englishの違い:
違いは様々あるが、ここでは先ず我が国では滅多に聞こえてこない本当のKing’s Englishがどれ程美しいかを語りたい。だが、書いているだけでは表しきれないので残念だ。美智子上皇后様が英語で語られた音声を何度か聞ける機会があったが、それはウットリする程正確で美しいQueen’s English(当時)だった。我が事業部のニュージーランド人のマネージャーの奥方はオーストラリア人だが、何度聞いても感心する美しいQueen’s Englishだった。

大胆に簡単に英連邦式(UKで良いと思う)の何処がアメリカ語と違うのかを言えば「UK系の方がアメリカ式よりも抑揚が無くアクセントの付け方が明確には聞こえてこない」とでも言えば良いかと思う。私のように、アメリカ語で育った者には、King’s Englishの方が聞き取りにくいこともある程、音の流れが違っていて平板に聞こえて戸惑うこともあった。

上智大学の頃に最も厳しくQueen’s Englishで指導された千葉勉教授の授業では、アメリカ式発音をすると「下品だ」と叱られたものだった。ところが、会話の時間を担当されたアメリカ人のTracy教授の面前で千葉教授式にすると「古い」と言って直されてしまうのだった。私はそれでなくてもアメリカ式の方がとっつきにくかったので、両方の間を取るような発音にしようとしていたので、何とか切り抜けられていた。

*カナダの何処の州から来たのか:
これは自慢話のようなこと。21世紀になってからの経験。ナイアガラの滝を観に行こうと先ずカナダのヴァンクーヴァー空港で乗り継ぎ便を待っていた時だった。構内の売店を冷やかして時間潰しをしていた。その一軒で何となく店頭の女性と語り合った。すると“Where did you come from?“と訊くから「今成田から到着したばかり」と答えると、また同じことを尋ねられた。こちらの答えも同じだった。

すると、彼女は“I’m asking which province of Canada you came from.“と切り返してきた。そこで「私は日本人で成田からやってきて乗り継ぎ便を待っていることころだ、何故そんな事を訊くのか」と言った。彼女は「貴方の英語がアメリカンイングリッシュではなかったから、何処かカナダの州から来たのかと思った」と言うのだった。そこで「貴女はアメリカンイングリッシュが好みではないのか」と言えば「勿論」だった。

余り知られていない気もするが、カナダは英連邦の一国なのだ。アメリカと同じ大陸にあるが、決して仲は良くはないのである。この点はアメリカがUKと必ずしも仲が良いとは言えないというのと同じだろう。故にと言うか何というか、カナダにはアメリカンイングリッシュを毛嫌いする人もまた多いのだ。だから、私の両方の中間を言っていたつもりの発音やアクセントを自分の都合の良いように受け止めたようだった。

この話を往年の同僚にしたら「君の英語の何処がUK式か。アメリカンイングリッシュ以外の何物でもない」と言って大笑いだった。彼も自分が聞きたい方に理解していたのだった。

結び:
英語を生徒や学生を評価する為とか、TOEICやTOEFLや英検のような試験の為に教えるのも結構なことだとは思う。だが、私は試験の成績向上も必要なことだとは理解しているが、上記のような表現の仕方の違いであるとか、発音やイントネーション等が正確であり、native speakerたちに理解されやすくなうように教えることも重要ではないのかと考えている。何時かは「カタカナ式でローマ字式の発音から脱却して欲しい」と期待している。