新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月19日 その2 『ボブルヘッド」なんて言いなさんな

2024-05-19 13:35:41 | コラム
大谷翔平は凄いものだなと感心:

大谷翔平君には及びも付かないが、このところ大振りすぎたかなと一寸反省すべきかのような固い話題を取り上げてきたので、今回は軽いと思う話題を。

大谷翔平がDodgersに転進して(私にはあの10年間の年俸に相応しい活躍をするのはこれからだと思うが)良く働いていると評価され始めたかと思っていた。しかし、ロスアンジェレスの市議会は「大谷翔平の日」を制定したそうだ。それだけではなく、彼のBobble headの人形(figureと言うらしい)を何万個か配布する日の入場料は立ち見席でも邦貨換算¥12,000としたそうだ。

さらに、彼の運動選手としての23年の年収は世界で13位だったと、FORBESが発表したそうだ。凄いなどという状態を通り越して「偉い」とでも言うべき境地に到達しているのではないかと思った。LAの市議会はアジア系の人があそこまでやって見せた点を評価したとか。

そこで、英語評論家はグッと話を変えて「ボブルヘッドなんて言うな」と主張したいのだ。何度も指摘したことだが、英語の単語にはアルファベットの“o”をローマ字のように単純に発音が「オ」とはならない単語が多すぎるのだ。例えば、アメリカ合衆国にも英連合王国(UK)にもRobertという名前のニックネームにBobを使う人が多い。この正確な発音はUKでも「バブ」でアメリカでは「バーブ」に近い発音記号がOxford English Dictionaryに出ている。

ではあっても、我が国ではマスコミは執拗にローマ字表記に執着してMission Impossible等は「ミッション・インポッシブル」とするし、Harry Potterは「ハリー・ポッター」にしている。これもOEDではUK式で「パター」アメリカ式では「パーター」になっている。また、オーストラリアのworking holidayは「ワーキングホリデー」なのも困った現象。アメリカにはHoliday Innというホテルはなく「ハラディー・イン」が最も原語に近い。

我が親愛なるマスコミは「いやいや。我が方にはチャンと原則とする冊子があり、それに従っているのだ」と言うだろう。それならその信念を曲げずとも結構。だが、せめて「本当の英語の発音ではこのように表記すべきだと承知していますが、我々は一旦始めてしまった表記を今更変更出来ないのでご了承を」くらいのことを公表してもバチは当たらないのではないかと思うのだが如何か。

ガリレオではないが、矢張り彼等は「あれはバブルヘッドではなくて、ボブルヘッドだがなー」と言うだろうと思うよ。


1950年代初期に上智大学で

2024-05-19 08:30:21 | コラム
学習した貴重な異文化:

膨大な宿題:
「無理かと思っても、やり遂げない事には評価の対象にはならないと認識せよ。何とかして結果を出せ。結果が良かったか悪かったかの問題ではない。何も出さなければ評価の対象にはならない」という得がたい教訓なのだ。

昨今、アメリカの大学に留学すれば「分厚すぎる本を来週までに読んで、概要、指定された部分についての論文、全体の感想等々を纏めて提出せよ」という類いの一見とても不可能としか思えない宿題を与えられるので、やり遂げるのに苦労する」という事が論じられるとか、如何にも大変なことのように報じられるようになってきた。「だから、アメリカ最高の私立大学に留学すると大変だ」と言いたいようだ。

我々1951年に上智大学の入学した者たちは、この大変な宿題と全く同じようなことに出会っていた。入学してから知り得たことは「上智大学は殆どの授業はカトリックの神父様たちが教授として担当され、今にして思えば『そのアメリカ式と全く同じような思考体系と異文化に基づく規律』に従って講義が行われていた」だった。

今だから言えることで「教授陣がドイツ人を中心とするヨーロッパの神父様たちであれば、プロテスタントであってもアメリカと異なる主義主張ではないのは当たり前だったのだ」と理解出来るのだ。ここに二進法に基づく思考体系を持ち出すのが適切か否かは別として「言われたことは何としてもやり遂げねばならないのであって、放棄して何も出さなければ採点(評価)の対象にはならない世界」だった。

何を強調したいのかと言えば「如何なる形であっても、評価(採点)の対象として頂けるような結果を提出するのが学生として当然であり、「無理だ」、「出来る訳がない」などと勝手に判断して放置すれば、評価は「0点」となってしまうのである。ビジネスの世界に当て嵌めれば「上司から与えられた課題(命令)は何とかして達成すべきものなのだ」という事。

私はアメリカの大手企業の中に入っていって上意下達というか、上から与えられた仕事は何としてもやり遂げるしかないと認識出来たのは「上記の膨大な原書を読み込んでこい」という宿題に出会っていたので「アメリカの企業社会で生き延びていく為には何が必要か」が理解出来たのだった。「そんなの無理です」と放置しておけば、極端に言えば「馘首」が待っている世界だという事。それが“I’ll be sure to get the job done.“としか言えない世界という事。

君は欠席が多かった:
これは言うなれば「自己管理は自己の責任」とでも言えば良いことか。これも上記と同じことのようだが「成績の判定の仕方が我が国とは違うのだと認識せよ」という事だった。アメリカの企業でも成績の査定(判定)にも5段階方式が採られているので、要注意だったのだ。

私がここに掲げた「欠席」の問題は「英会話」の授業で経験した。私は組(「クラス」なんてカタカナ語は遣いたくない)の中で最も活発に語って、アメリカ人の講師(未だ神父にはなっていないという意味)とも大いに議論したので、良い成績だろう自負していた。ところが、1年が終わって成績を見れば70点だったのだ。意外なことだと教授館に押しかけた。

Tracyさんはノートを広げて確かめて「君は欠席が多かった」と一言。確かに私は学費を稼ぐ為に、当時は許されていた「アルバイト届」に仕事先の承認印を貰って教務課に提出してあったので、原則である「3分の1以上欠席すると失格で単位を取れない」には該当していなかっただけだった。アルバイトしなければならないというのは学生の都合だという意味。教授は理解しても欠席が多いことに目をつぶらないとでも言えば良いか。

即ち、後にYM氏から聞いたビジネススクールでは「平生点、出席点、リポート点、試験の成績、教授の評価」を纏めて学務課に提出し『合否』は算術平均で決められる」と全く同じだったのだ。即ち、感情や教授の好き・嫌いなどは影響されることがない方式だという事。

この経験があったので、アメリカの企業社会での行動や振る舞いや成績の上げ方には要注意だという事が、転出してから暫くして見えてきた。即ち「体調が整っていなかった為にその仕事を成し遂げられなかった」など言うのは話にならない自己管理不足だという事になるのだ。健康の管理は完全に自己責任であり、上司は部下の体調不良などには理解を示さないし、先ず同情もしない世界だという事。

君は「規則を守ります」と誓って入学したのだ:
これは、何の講座か失念したが、隣の席に近づいて教授のHerzog神父様の講義を聴いていた学生がいた。教授は「離れなさい」と命じた。その学生は「教科書を忘れたので、見せて貰っています」と答えた。教授は「教科書を忘れたとは私の講義を聴く資格がない。即刻退出しなさい」と命じられた。学生は「厳しすます」と抗議した。

教授は怒りの表情で「事前に準備して、教科書を持って出席するのが学生として務め。それが出来ていないのでは退出が当然。君は規則を守りますという書類に署名捺印していたでしょう。規則を守りなさい」と厳命。すると、彼は立ち上がって「私は学則には付いていけませんから、ただ今を持って退学します」と言って出ていき、後で調べれば、本当に退学していた。

これが「神のみ旨」であるキリスト教の教えと考えるよりも「規則を守らないと(反則を犯すと?)と処分の対象になる」という当時の上智大学ならではの厳格さだったと思って受け止めた。ビジネスの世界では規則というか決め事というか、通達されていたことに反していた場合は許されないという事だった。

参考までに上記の延長でビジネスの世界での事。納入を開始する前にその製品についてのSpecifications sheetを得意先に手交したそうだ。そこには「このような用途に使われると不良品が出るので、その場合にサプライヤーは責任を負わない」と明記されていた。だが、ユーザーは使ってしまった。クレームを出した。サプライヤーは認めなかった。スペックシートに記載してあるのに守らないのは買い手側に責任であると拒否して大問題になった。

アメリカ側は「通告してあったではないか」の一点張り。日本側は「あのスペックシートは形式的なものではないのか」と反論したが通じなかったそうだ。文化の違いで片付く問題だっただろうか。

結び:
アメリカの会社に転出してから、上述のように学習をしてあったので「なる程。あの時に大学経験したのはこういうことだったのか。彼等の行動基準にはこういう事柄があったのか」と悟ったので、自分としてかなり早い時点で彼等の物事の基準に何とか対応出来るようになって行った。と、偉そうなことを言うが、彼等の中で過ごして最後にぶつかる障壁には矢張り宗教があると思う。それは、我々は一神教の世界で育った訳でなかったという事。