仮に少しだけは理解しても同情はしない点がある:
私は1994年までの約22年も「通訳も出来る当事者」と自称して仕事をしてきた。1972年8月にアメリカの会社に転進するまでは、通訳という仕事をした経験は無かった。だが、アメリカ側の一員として交渉の席に着けば、否応なく通訳しなければ話は進まなかったのである。MeadでもWeyerhaeuserでも職務内容記述書に「通訳をする」という項目など無かった。出来て当然と認識されていたようだった。
だが、実際にはやる以外の選択は無かったし、交渉の相手である我が国の一流企業で自社の通訳が同席する事もあって、私は我が方の代表者の英語での語りを日本語にするだけの事もあった。だが、時が経つに連れて通訳は私だけに課される重要な仕事になって変わって行った。偉そうな事を言えば「彼に任せておいても、不公平というか偏った通訳をしない交渉の当事者である」と認識して貰えたのだと思って、重大な責任を感じていた。
水原一平の何処に理解を示すかを取り上げる前に、改めて「通訳という仕事とは」を解説してみよう。それは「頭の中を空にして、発言された事を素直に、自分の考えなどを影響させず、両国の文化と思考体系を認識し、異論などを唱えてしまわないようにと十二分に注意して、感情などを交える事無く、即刻他国の言語に正確に変換して、平明な言葉で語っていく事」だと定義しておく。
ところが、通訳という仕事には経験してみないと解らない「欲求不満(フラストレーションであっても、ストレスではないと思う)を蓄積させてしまう性質であり、難点があるのだ。それは「偶には俺自身の考えや意見も言わせてくれ。俺は他の言語に転換するだけの機械じゃないのだ」という不満が鬱積してくるからなのだ。
交渉の場では私も当事者であるから、自発的な発言も出来る時はあるが、重要な責務は「その場で交渉の主体である我が方の上司の副社長の発言を一言一句の誤りもなく先方様が理解して下さるような日本語にする事と、先方様の意向を私心無く公平に訳す事」なのである。ここでは先入観念などは入れ込むとか、我が方に有利となるような通訳をする事は宜しくないのは言うまでもない事。
このような重要な任務も負うのが通訳。また、技術サービスマネージャと全取引先の本社と地方の工場を巡回して「我が社の製品に対するお客様の満足度(customer satisfaction)や改善を求められる品質問題の有無などを伺いに、2週間も日本中を移動することがある。1週間も過ぎれば「偶には俺にも語らせろよ」と欲求不満状態に陥って、何か特別な理由もなく彼と口論になってしまう事があった。この状態は私だけの事かも知れないが、面倒になってくるのだ。
私が水原一平の仕事ぶりを見ていて感じた事は「彼は私とは立場がまるで異なる、通訳としてDodgersと契約し、常に大谷翔平の口となって彼の発言を日本語に変換し、監督やコーチや仲間の発言を英語に変えるのが仕事なのだ。即ち、彼は絶対と言っても良いかも知れない程『当事者』ではない」のである。恐らく、大谷と雑談でもする意外には、水原個人の発言の場は限定されていたのだろう。
私が思うのは「そこに(私が経験した以上の)大いなる欲求不満が生じて、その捌け口とする代償を賭け事に見出したのかな」と考えたのである。私の場合はそれが欲求不満だとは認識出来ずに、他の業務の多忙さもあって一年中強烈な肩こりと頭痛に悩まされ、マッサージで何とかする以外に少しでも和らげるというか、切り抜ける手段が無かった。
私が言いたい事は「要するに、水原一平は基本的な訓練も受けずに、高額な年俸を取る通訳を専業とした事に誤りがあったのでは」と少しだけ理解を示す余地があるかという事。なお、「今頃になって言うのか」と批判されそうだが、彼の英語力は大谷翔平の結婚発表の談話を代筆したのだろう文章に致命的な基本的な文法の誤りがあった事からも、その程度が見えてくる。