新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

春の選抜高校野球の開催中止

2020-03-12 09:03:13 | コラム
毎日新聞社と高野連の中止の決断に思うこと:

高校球児って何のことだ:

一般的にと言うかマスコミは「球児」を野球に限定しているようだし、恐らく誰しもが「高校球児」と聞けば、純真無垢な高校の野球部員のことだと理解するだろう。だが、私はこんな偏見はないと思っている、この世には「蹴球」もあるし「籠球」もあるし「排球」もあれば、古くは「鎧球」という名称すらあった。お解りでない方の為に解説しておけば、これは「アメリカンフットボール」のことである。これらの「球」の字が付く競技(球技)がありながら、如何なる根拠で「球児」を野球に限定するのか。不公平だ。

精神主義の時代は終わっている:
11日の「報道1930」では、私が日頃その発言を高く評価している自民党の新藤義孝議員が選抜高校野球の開催中止を捉えて「日頃、血を吐くような練習をして来た野球部員たちが気の毒だ」との趣旨の発言をされた。遺憾ながら甚だ陳腐であり、前世紀の遺物のような野球観だと断じたくなった。野球という球技の世界では未だにこのような部員たちを絞り抜く練習を積むことが肝腎だと思っている指導者がいるようだが、最早そういう時代は終わっている。新藤氏がそういう古き認識でおられるのは非常に残念だった。

私が知る限りでも、何も野球界だけに限ったことではないが、我が国では上から下まで「血を吐くような練習」が尊ばれた時代が長く続いた。即ち、我が国独得の精神主義が支配していたのだった。苦しい練習こそが上達への道だったし、かの我が国最初の三冠王となった落合博満氏は「練習なんて人の見ているところでやるものじゃない」と断言した。かの長嶋茂雄氏は立教大学時代に砂押監督の猛練習によって鍛え上げられたので、これこそが一流選手への道だと確信し、監督となってからは選手たちを非常に厳しく鍛え上げたそうだ。

その思想と対極にあったのが、残念ながら先頃亡くなった故野村克也氏だった。彼は南海ホークス時代にMLBから来たドン・ブラッシングゲームにアメリカ式合理的な練習法とベースボールを教え込まれて、監督就任後も選手たちをアメリカ式を採り入れた指導法で育てていったのだった。私はこれまでに何度か「トレーニングの方法という点では、野球が我が国で最も遅れている」と酷評してきた。それは取りも直さず「精神主義から脱出出来てない」という意味だ。あるジムのトレーナーは「我が国で最もトレーニングの手法が進んでいるのは、未だにマイナースポーツの域を出ていないアメリカンフットボール」と断言した。

何故、精神主義の時代が続いたのか:
週刊新潮3月12日号に非常に興味深い佐藤勝氏と奈良の興福寺老院・多川俊映氏の対談があった。多川氏は法相宗の「唯識」を語られた中で、その最初の修行法である「堂参」を解説しておられたので、少し長くなる外用してみる。

>引用開始
「朝早く起きて、20ほどあるお堂を勤行しながら回り、終われば掃除、掃除が終わればまた掃除です。非常に地味で楽しみもない。それを10年くらいさせて様子を見ます。初めは真面目でも長くやっていれば、どこかでボロが出てくる。だから10年勤めあげれば、まあまあやれるかかな、ということですね。その次が「竪義」という口頭試問を行います。(以下略)」
<引用終わる

私は堂参の10年には驚かされたが、そこで思い出したのが故酒井阿闍梨が成し遂げられた「千日解放行」だった。その内容を今ここで云々する気はないが、私には「修行僧を厳しい物理的な修行で限界まで追い詰めて、何かを悟らせる手法か」と思わせられた。私のような俗物にはその極限というか限界まで達した先に何が見えてくるかは想像も出来ないが、野球の練習に屡々見られるやり方が、その修行法に学んだのではないかと思わせられる精神主義が見えてくるように思えるのだった。

私が20年以上もの間働いていた合理主義のアメリカのビジネスの世界には、精神主義のような考え方は、もしかすると薬くらいにはなるかなと思わせられる程度にしか存在していなかった。簡単に言えば「精神一到何事か成らざらん」とは考えないということだ。目的達成の為には如何なる段階を踏んで攻めるかを理屈で考えて、方法論を組み立てていくのだった。スポーツの世界にも勿論精神主義はなく、言うなれば「如何にして短時間の全体練習で、最高のテイームを作り上げるか」を考えているのだと聞かされていた。

アメリカ式の手法:
根本にある思想は「各人の自覚に任せておく」という考え方だと思う。簡単に言えば、コーチたちはトレーナーの意見を入れて各選手はそのポジションに最適な身体を作る為にはどのような「ウエイト」を含むトレーニング方法を教え込み、それを自分でそれこそ毎日続けてから全体練習に参加させるという、各人の自主性を尊重した練習法を課しているのだ。その宿題が出来ていなければ、自動的にレギュラーメンバーから脱落するだけの解りやすい方式だ。余計なことを言えば、我が国の野球に見られるように「監督が選手の打撃指導をする」などは夢にも考えられない世界だ。

野村克也氏は「MLBの野球は体力と体格に任せた大雑把なものだと思っていたが、ブラッシングゲームに教えられたアメリカ式は全く異なっていた」と述懐していた。野球の専門家に「そんなことは承知している」と言われそうだが、先日NHKのBSで見たアメリカの大投手、ランディ-・ジョンソンが少年野球を指導した際に「投手が一塁ベースのカバーに入って送球を受けるときには右足でベースの内側を必ず踏む」を繰り返し教え込んでいた。基本中の基本に見えるが、少年たちは誰一人としてそうすべきだとは知らなかった。これなどは些細な例だ。私流に言えば「文化の違い」だ。

私はアメリカ人たちの合理性と20数年間付き合ってきたのだが、屡々その息が詰まりそうな合理性というか、報告書などには「ここは言わなくとも解ってくれるだろうなどとは考えずに、そこまで細部にわたって記述しておかねばならないのか」とウンザリさせられたほど、所謂”detail“の省略は許されなかった。彼等は絶対と言って良いほど「言わなかったこと」や「書かれていなかったこと」を推察してくれることはしないのだ。だから、私は毎日のように如何なる事でも報告書にして残して置いた。

選抜高校野球の開催中止:
ある専門のお医者様は「中止したことは医学的に見ればほぼ無意味だが」と切り出した後で「現在のような緊急事態の下にあっては中止の決定もあり得る」という表現だったのが最も印象的だった。私は「球児が気の毒だ」という類いの精神主義には与さないが、毎日新聞社も高野連も政府の自粛の要請と多くの競技大会が中止また延期となっている「空気」に圧されたのではないかと思って見ている。この決定は私が常に言う二者択一であるのだから、昨日になって議論を百出させるよりも、1週間前に「イェスかノーか」を決断出来ていたのではと思うのだ。

だが、ここは文化を異にするアメリかではないのだから、そこはズバリとは割り切れなかったのだろう。さぞかし大変だっただろうとは解る。だから「球児たちが気の毒だ」と言うのか。



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