新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月15日 日本語に愛を持てない者は去れ

2021-10-15 14:40:27 | コラム
北方謙三氏は言った:

北方氏は週刊新潮に連載しておられるコラム「十字路が見える」で件名のように明快に指摘しておられた。10月21号である。私にしてみれば「カタカナ語排斥は孤軍奮闘ではなかった。有り難い」との思いで読んだ。言うまでもない事でカタカナ語に関してである。カタカナ語(北方氏は「横文字」と表現しておられる)については、2ページ目に書いておられることが我が意を得たりなので、少し引用してみようと思う次第だ。

>引用開始
まず、訊きたい。インバウンドとはどういう意味なのかな。もし外国人旅行者のことを言うのなら、そのまま日本語で言った方が、はるかにわかりやすくないか。多分、日本語では表現できない、深い深いところで大いなる意味を持っているのだろうが、それならそれで、遣っている人たちがきちんと説明しろよ。しかし、必然性の問題だな。横文字にするのに必然性があるとしたら、日本語の方にそうとう大きな問題がある、ということだろう。日本語で言えないので、インバウンドなどと言ったりするのだろう。インバウンドが外国人旅行者だとしたら、それほど日本にとって不都合な人たちになるのか。

いやだなあ。私は、ほんとうにいやだよ。テレビのニュースでも、平然とインバウンドと言っている。せめて公共放送ぐらいは、率先して日本語を破壊するようなことは、やめてくれないかな。疫病関係の言葉も、横文字で表現して、括弧の中で日本語で説明するという滑稽さである。三密を、人流を、横文字にしてくれ。できないなら、ほかのもするな。特に公共的な立場にいる人、日本人だろう。日本語を遣おうよ。君もだぞ。

<引用終わる

「北方様、よくぞ言って下さいました」と心の底から賛成すると同時に感謝申し上げたい。私が長年主張してきたことが「日本人だろう。日本語を遣おうよ。君もだぞ」なのであるから。北方氏のようなカタカナ語にすれば「インフルエンサー」とでも言えるだろう著名人で、横文字(=カタカナ語で良いと思うが)を排斥しておられる方は極めて少ないと思っていたし、自分自身は孤軍奮闘であると思ってきた。何分にも「嫌味だ」とまで言われた経験まであるのだから。

念の為に振り返っておくと、私は「インバウンド」は批判してあった。それは、北方氏も指摘しておられたように“inbound”という単語には「外国人旅行者」などという意味はないのだから。もしかして“inbound traveler”とでもいう熟語があって、flip chartのflipだけを切り取って「フリップ」にしてしまったのと同様な手法かも知れない。「ウイルス感染の再拡大」を簡単に言えば「はね返る」という意味のreboundから取って「リバウンド」としたのも同様な手口だ。「リバウンド」だけでは何が跳ね返ったのか、再度拡大したのか特定できていない。

私は1990年からカタカナ語というべきか、英語の単語をそのまま日本語の中に組み込んで「粋がっていたり、格好が良いと錯覚したり、時代の先端を行っているとでも思い込んでいる現象を批判してきた。そんな格好の良さなど不要だ」と言って。ところが、この格好付けの傾向は拡大する一方で、21世紀の初め頃には私が一寸集めてみただけで200語近くにも増えていた。2008年に行ったプリゼンテーションでは、大雑把に「造語(和製英語)」、「ローマ字式発音」、「言葉の乱造・濫用・借用」、「合成語・複合語」に分類しておいたが、これらのどの分野でも新語が続々と現れている。

私はこういう現象が起きる最大の原因に「我が国の至らざる英語教育、就中単語を覚えさせようとする教え方」を挙げてきたし、この見解を変える気はない。単語を沢山覚えさせることは結構なことだ。だが、単体で覚えさせるだけで、流れの中での使い方を教えず、口語体、文語体、俗語、慣用句等に分けて覚えさせないのが困るのだ。長い年月アメリカの大手企業の中にいて、支配階層の人たちと語り合い話し合っていても、collaboration, overshoot, quest, renewal openなどと見たことも聞いたこともない表現が、スラスラと出てくるのには恐れ入るだけだ。日本語にしようよ。

参考資料:週刊新潮 21年10月21日号



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