新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月8日 その3 「韓国の事情」を訂正します

2024-12-08 12:44:53 | コラム
大韓民国は簡単に外部から理解出来ない国のようで:

先ほど、何気なく見ていたTBSのニュースショーで報じていたソウルの国会議事堂前は、人っ子一人いない静かな状態。10万人とかと報じられたデモ隊は一夜にして撤退した模様。超後期高齢者の当方等は「あれほどあの場所に人が集まっては、簡易トイレの100台くらい準備されていたのか」という方を心配する。

1971年72年と短期間に2度も輸入の話で戒厳令下のソウルに出張していた私は、ある中小財閥のオウナー社長とも昵懇の間柄になっていた。さらに、1990年代には観光旅行も兼ねて3度も訪韓して社長(後に会長になっておられた)とも海外の事情等を語り合う機会もあったので、それなりに韓国の事情通の端くれの、そのまた下っ端くらいにはなったかと錯覚していた。

だから、今回のあの尹大統領支持派と弾劾派の猛烈なデモ合戦を見ていると「俺は韓国民の思考体系などまるで解っていなかったようだ」と勝手に恥じ入っている。少しだけ解っていた事は「韓国の人たちは熱しやすいのではなく、激しやすく冷めやすいのかな」と見える辺りか。だが、その激高振りも一夜にして終わって、国会前は後片付けの人たちだけだそうで。

我が国で「石破首相を批判する者が大勢いても、国会議事堂前に10万人も蝋燭を掲げて『辞めろ』と騒ぎ立てるか」という話。こういう違いは民族性の違いなのか、民度に違いがあるのかなどは、全く推測など不能だ。ただ感じるのは「あれほどの熱量で自国の大統領を非難/批判する勢いがあるのだから、一旦反日で凝り固まれば「恨」となって、エネルギーが長続きするのかな」と考えている。

野党は何度でも弾劾案を出すそうだから、何れは与党が後継候補を固めて尹大統領を辞職させて大統領選挙に持ち込むと、TBSの支局長は予測していた。そうなった場合に、反日に首魁である野党の李在明代表は裁判を抱えていても出てくるだろうし、勝ってしまう気配が濃厚のようだ。そうなれば、岸田政権下で風向きを変えた日韓関係が「元の木阿弥」になってしまいそうで大変だ。

私はそうなってしまった時にも、石破内閣が健在であるようなカンがしているので、石破首相には新大統領に「貴方様の史観と施政方針は誤認識と誤解と理解不足で誤っている。56年の条約で全てが決まっている。感情と恨だけに支配された対日政策を改めて、アメリカと日本との同盟関係を最重要視してDPRK、中国、ロシアから自国と日本とアメリカを守る姿勢に転換すべきだ」と真っ向から説いて聞かせることを期待しようと思っている。

12月8日 その2 韓国の事情

2024-12-08 11:44:19 | コラム
大韓民国は簡単に外部から理解出来ない国のようで:

先ほど、何気なく見ていたTBSのニュースショーで報じていたソウルの国会議事堂前は、人っ子一人いない静かな状態。10万人とかと報じられたデモ隊は一夜にして撤退した模様。超後期高齢者の当方等は「あれほどあの場所に人が集まっては、簡易トイレの100台くらい準備されていたのか」という方を心配する。

1971年72年と短期間に2度も輸入の話で戒厳令下のソウルに出張していた私は、ある中小財閥のオウナー社長とも昵懇の間柄になっていた。さらに、1990年代には観光旅行も兼ねて3度も訪韓して社長(会長になっておられた)とも家以外の次女等を語り合う機会もあったので、それなりに韓国の事情通の端くれの、そのまた下っ端くらいにはなったかと錯覚していた。

だから、今回のあの尹大統領支持派と弾劾派の猛烈なデモ合戦を見ていると「俺は韓国民の思考体系などまるで解っていなかったようだ」と勝手に恥じ入っている。少しだけ解っていた事は「韓国の人たちは熱しやすいのではなく、激しやすいのだ」と見える辺りか。だが、その激高振りも一夜にして終わって、国会前は後片付けの人たちだけだそうで。

我が国で「石破首相を批判する者が大勢いても、国会議事堂前に10万人も蝋燭を掲げて『辞めろ』と騒ぎ立てるか」という話。こういう違いは民族性の違いなのか、民度に違いがあるのかなどは、全く推測など不能だ。ただ感じるのは「あれほどの熱量で自国の大統領を非難/批判する勢いがあるのだから、一旦反日で凝り固まれば「恨」となって、エネルギーが長続きするのかな」と考えている。

野党は何度でも弾劾案を出すそうだから、何れは与党が後継候補を固めて尹大統領を辞職させて大統領選挙に持ち込むと、TBSの支局長は予測していた。そうなった場合に、反日に首魁である野党の李在明代表は裁判を抱えていても出てくるだろうし、勝ってしまう気配が濃厚のようだ。そうなれば、岸田政権下で風向きを変えた日韓関係が「元の木阿弥」になってしまいそうで大変だ。

私はそうなってしまった時にも、石破内閣が健在であるようなカンがしているので、石破首相には新大統領に「貴方様の史観と施政方針は誤認識と誤解と理解不足で誤っている。56年の条約で全てが決まっている。感情と恨だけに支配された対日政策を改めて、アメリカと日本との同盟関係を最重要視してDPRK、中国、ロシアから自国と日本とアメリカを守る姿勢に転換すべきだ」と真っ向から説いて聞かせることを期待しようと思っている。

「昭和16年12月8日」に思う:

2024-12-08 08:21:30 | コラム
12月8日への思い:

あれから83年目の12月8日となった。21世紀で昭和99年(2024年)の今となっては、「12月8日」と聞いて「あの日か」と思い当たる人か「その日だったか」と思い出す人がどれほどおられるのだろうか。「何の日だったか」を知らない人の世代になってしまったのではないのかと思う。

あの時は、昔風に言えば「数え年」で9歳、小学校の3年生だった。転地療養兼早めの疎開で藤沢市鵠沼の叔母の家の隣に住んでいた私は、その叔母の家の暗い電球の灯りの台所にいて、あの突然の「アメリカ軍と西太平洋上で戦闘状態に入れり」とのラジオの臨時ニュースを聞いて「やった。やった」と一同で小躍りしていたものだった。

子供心に承知していた事は「我が国を悩ます悪さを仕掛けてくるアメリカ軍をハワイで叩いた」のであるから、素直に純真に喜び勇んだのだった。この昭和16年(1941年)から始まった戦争は、私が中学に入学した昭和20年(1945年)の8月15日に終わるまで3年8ヶ月続いたのだった。

湘南中学の入学試験の口頭試問では「早く大きくなって(当時は近眼だと思わせられて眼鏡をかけていたので)海軍経理学校に進んで海軍軍人となって天皇陛下とお国の為に役に立ちます」という固い決意と意思を表明した事を未だに覚えている。その聖戦が不利となり、本土決戦を覚悟させられた頃に、あの玉音放送となって戦争が終わった。

その昭和16年12月8日から2024年の今日までに、日本がどれほど変わったかを92年間経験してきた私は良く覚えている。戦争の間と戦争が終わった後の惨憺たる状態というか、日本がもう一度戦争前のようなチャンとした国になれるのだろうかと、不安を抱えながら、大人の人たちが苦心惨憺しておられるのを見ながら、大学まで通って勉強していた。

あの頃は辛い事ばかり非常に多かったし、物理的に食べるだけでも一苦労も二苦労もせざるを得ない暮らしだった。中学では蹴球部に入ったが、練習でも試合でも「靴」を履いている者などは珍しく「地下足袋」を履いている者は珍しくなかった。この辺りは戦後の話だが、私たちは本気で本土決戦を「竹槍」で戦おうと訓練している大人たちを見てきた世代だ。

中学1年生でも勤労動員はあったし、農村動員にも派遣された。そこで農家の人たちから「家に帰って食べなさい」とサツマイモが貰えて涙を流してお礼を言っていたのだった。私はこのような回顧談をしようとするのではない。寧ろ、忘れたくても忘れられない経験を一寸振り返っただけだ。

我々の世代とその親に当たる世代は、こういう経験をして我が国を「世界の奇跡だ」と諸国に言わしめた復旧と復興を成し遂げようとしていたのだ。戦争中だって、素直に「大本営発表」を信じて「勝つのだ」、「欲しがりません、勝つまでは」と耐え忍んで「銃後の国民」としてお国の為に尽くしていたのだ。

21世紀の現在になって、何も「俺たちはこういう苦労をしてきたのだ」などと言いふらそうなどとは考えていない。言いたくもなる事は「あの時代を経験していない現代の人たちが戦争物の、私の目には絵空事としか見えない映画やドラマを作って戦争は良くない等と言うのを聞くのは不愉快」なのだ。

それは「君たちは、あの頃の事など知らないのでしょう。伝聞でしょう。知りもいないのに、色々と知った風な事を言わないでくれ」と腹が立つ前に、何とも虚しい思いに駆られるのだ。あの時代の辛さや苦しさがドラマや書き物で表現できるとでも言うのかと。

何も「我々の親の世代が国を立ち直らせ、我々が引き継いだ」などと偉そうに言うのではない。私たちの世代の役目は終わって、静かに余生を送っているところに余計な事を言って煩わさないでくれ。貴方方が心配すべき事は『無駄にしてしまった30年』からどうやって、あの”ジャパン・アズ・ナンバーワン”の輝きを取り戻すか」ではないのかだろう。