日本語を大事にしよう:
今回は「カタカナ語排斥論者」としてではなく、何らの必然性もないだけではなく何の必要もないにも拘わらず、英語擬きの表現を使うことを止めようと言いたいのである。その最たる悪い例としては、躊躇せずに小池百合子東京都知事を挙げたい。この方は何かと言えば記者会見の語りなどに英語の単語乃至は熟語をお入れになるが、私に言わせて貰えば「あれではご当人は英語を本格的に正確にお解りではない」と問わず語りをしているのと同じだし、一般の方を相手に「どうです、私は凄いでしょう」と言っているのと同じだと思って嫌みだとみている。
その英語擬きの最悪の例が、例の「オーバーシュート」で、専門家会議という権威ある存在の副座長様が誤用されるや否や軽々しく真似て「所謂オーバーシュート」などと追随して見せた点だけで自らの英語力の怪しさを立証してしまった。尾身氏が使われたからと言っても、都知事自身も側近も英和乃至は英英辞典くらい見る時間の余裕があったはずではないのか。それだけに止まらず、小池都知事はこの度は“Stay home. Save life.”と一見尤もらしい英語による標語を持ち出された。今回は言葉の誤用はないように見える。
だが、私は「ここは日本国・東京都である。何の合理的必然性があって『外出を控えてください。命を守りましょう』という標語というか都民への要請を、英語にしなければならないのか」という率直な疑問を呈したいのだ。都知事はもしかして、多くの都民が「小池さんは素晴らしい。英語を使って我々に要請されたのだから、極力従おう」とでも思ってくれると自己過信しているのではないか。我が国の至らざる英語教育を以てしても、全部の都民が英語の標語を理解するとでも錯覚を起こしているのではないか。私は誤りであると断じる。何でも英語にすれば良いのではない。
新型コロナウイルスの感染が激しくなって以来、専門家の先生方もマスコミも何故か一斉に「英語擬き」の使用を始めたのだった。私は「集団感染」を「クラスター」と呼ぶのを見れば、果たして英語の“cluster”本来の意味をご承知かと言いたくなる。「フリップ・チャート」を「フリップ」と呼んでいるのと同じ言葉の誤用だ。「コロナ」(=“corona”)も既に指摘したが、「新型コロナウイルス」という意味はない。だが、それでも「コロナ」だけで通じてしまうのが実体である。私はせめて「コロナウイルス」くらいは言って欲しかった。
以上で何を言いたかったのかをあらためて述べてみれば「日本語を大事にしよう。日本語に単語や熟語で英語擬きと同じ意味となる表現があれば、躊躇わずにそちらを使うべきではないのか」と小池都知事のような方と、軽佻浮薄にカタカナ語を有り難がるマスメディアを厳しく非難したいのだ。「ここは日本国であって、アメリカ合衆国でも英連邦でもないのだ。如何にも自分が英語を弁えた国際派であると言いたいような軽々しく英語擬きを使うのは、長らく英語の世界に暮らしてきた私から見れば似非英語通に過ぎない」のである。
問題は事が似非英語通だけに止まっていれば未だ良いが、私が以前から指摘しているように英語擬きとカタカナ語の乱用は一見格好が良いかの如きだが、よく考えなくても解ることで「表意文字の文化である日本語に、意味不明な言葉の誤用までして表音文字の文化を強引に移植しようとしている行為に他ならない」のだ。テレビなどに登場される専門家の方々がどれほどの数のカタカナ語を使って語られるか、アナウンサーやキャスターたちがどれほど多くのインチキな発音の英語擬きをシナリオ通りに使っているかを見る時に「我が国の将来は暗いな」と嘆いている。
今回はその種のテレビ用語を批判する為の一文ではないのだが、注意して聞いていて貰えれば世間にはカタカナ語の羅列が多過ぎると解る。私はそれよりも罪が深いと思うのが、必然性がない「英語の文章」をこれ見よがしに使う社会的な身分が高い方々だ。アメリカでの表現を見ていたら、小池都知事が“Save life”とされたところは“Save lives”と複数になっていた。こちらの方が筋が通っていると思う。因みに、Irish Timesには“Stay-at-home”となっていた。文科省は国語の教育を優先し、その後で英語は正しく正確に教えるようにしたら如何ですか。日本語を大事にしよう。
今回は「カタカナ語排斥論者」としてではなく、何らの必然性もないだけではなく何の必要もないにも拘わらず、英語擬きの表現を使うことを止めようと言いたいのである。その最たる悪い例としては、躊躇せずに小池百合子東京都知事を挙げたい。この方は何かと言えば記者会見の語りなどに英語の単語乃至は熟語をお入れになるが、私に言わせて貰えば「あれではご当人は英語を本格的に正確にお解りではない」と問わず語りをしているのと同じだし、一般の方を相手に「どうです、私は凄いでしょう」と言っているのと同じだと思って嫌みだとみている。
その英語擬きの最悪の例が、例の「オーバーシュート」で、専門家会議という権威ある存在の副座長様が誤用されるや否や軽々しく真似て「所謂オーバーシュート」などと追随して見せた点だけで自らの英語力の怪しさを立証してしまった。尾身氏が使われたからと言っても、都知事自身も側近も英和乃至は英英辞典くらい見る時間の余裕があったはずではないのか。それだけに止まらず、小池都知事はこの度は“Stay home. Save life.”と一見尤もらしい英語による標語を持ち出された。今回は言葉の誤用はないように見える。
だが、私は「ここは日本国・東京都である。何の合理的必然性があって『外出を控えてください。命を守りましょう』という標語というか都民への要請を、英語にしなければならないのか」という率直な疑問を呈したいのだ。都知事はもしかして、多くの都民が「小池さんは素晴らしい。英語を使って我々に要請されたのだから、極力従おう」とでも思ってくれると自己過信しているのではないか。我が国の至らざる英語教育を以てしても、全部の都民が英語の標語を理解するとでも錯覚を起こしているのではないか。私は誤りであると断じる。何でも英語にすれば良いのではない。
新型コロナウイルスの感染が激しくなって以来、専門家の先生方もマスコミも何故か一斉に「英語擬き」の使用を始めたのだった。私は「集団感染」を「クラスター」と呼ぶのを見れば、果たして英語の“cluster”本来の意味をご承知かと言いたくなる。「フリップ・チャート」を「フリップ」と呼んでいるのと同じ言葉の誤用だ。「コロナ」(=“corona”)も既に指摘したが、「新型コロナウイルス」という意味はない。だが、それでも「コロナ」だけで通じてしまうのが実体である。私はせめて「コロナウイルス」くらいは言って欲しかった。
以上で何を言いたかったのかをあらためて述べてみれば「日本語を大事にしよう。日本語に単語や熟語で英語擬きと同じ意味となる表現があれば、躊躇わずにそちらを使うべきではないのか」と小池都知事のような方と、軽佻浮薄にカタカナ語を有り難がるマスメディアを厳しく非難したいのだ。「ここは日本国であって、アメリカ合衆国でも英連邦でもないのだ。如何にも自分が英語を弁えた国際派であると言いたいような軽々しく英語擬きを使うのは、長らく英語の世界に暮らしてきた私から見れば似非英語通に過ぎない」のである。
問題は事が似非英語通だけに止まっていれば未だ良いが、私が以前から指摘しているように英語擬きとカタカナ語の乱用は一見格好が良いかの如きだが、よく考えなくても解ることで「表意文字の文化である日本語に、意味不明な言葉の誤用までして表音文字の文化を強引に移植しようとしている行為に他ならない」のだ。テレビなどに登場される専門家の方々がどれほどの数のカタカナ語を使って語られるか、アナウンサーやキャスターたちがどれほど多くのインチキな発音の英語擬きをシナリオ通りに使っているかを見る時に「我が国の将来は暗いな」と嘆いている。
今回はその種のテレビ用語を批判する為の一文ではないのだが、注意して聞いていて貰えれば世間にはカタカナ語の羅列が多過ぎると解る。私はそれよりも罪が深いと思うのが、必然性がない「英語の文章」をこれ見よがしに使う社会的な身分が高い方々だ。アメリカでの表現を見ていたら、小池都知事が“Save life”とされたところは“Save lives”と複数になっていた。こちらの方が筋が通っていると思う。因みに、Irish Timesには“Stay-at-home”となっていた。文科省は国語の教育を優先し、その後で英語は正しく正確に教えるようにしたら如何ですか。日本語を大事にしよう。
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