何が故に万人に英語を教えようとするのか:
「英語で話せるようにしたいのか」という題名でも良いかと思う。私は日本全国津々浦々に英語学の権威者や英会話の達人がいる必要などないと思っている。そこで、私は本26日の産経新聞に掲載された「時評論壇」の「大学入試改革迷走を憂える」と題した論説委員・岡部伸氏の英語の学習についての記述を興味深く読んで、私の英語教育改革論にも少し触れてみようと思うに至った。
日本マイクロソフトの社長だった成毛真氏も言われたと記憶するが、誰も彼もが英語で話せるようにする必要もないと論じておられた。元新日鉄副社長の古賀憲介氏は「小学校から英語教育をと決まった」と嬉々として語った教育審議会(と言う名称だったか)の委員の発表を聞かれた後で、個人的に私に「万人に強制するべきことではない」と呟かれたのだった。この「小学校から」は愚かであると何度も何度も述べて来た。それは「現在の教育法をそのまま小学校に降ろしだのでは効果が挙がる訳がない」と思うからだ。
議論でも主張でもないが、私は1945年の旧制中学の1年生だった私に「英語だけで考えなさい。日本語に訳そうとしたり、言いたいことを先に日本語で考えてから英語にしようとしては駄目。英語ではこう言う時にはこう言えば良いのだと思って覚えておきなさい」と、何度でも英語だけで語りかけて下さったGHQの秘書で日系人だった方のような能力がある方が、基礎から教えていけば、我が国における英語力は変わって行くかも知れないと信じている。因みに、この秘書の方は完璧な日本語を話され、書道ではどのような書体でも書いておられたほど、日本人以上に日本人だった。
その方に教えられて未だに覚えている、ごく簡単な日常的な言い方を紹介しよう。「そこのタオルを持ってきて」が“Get me the towel over there, for me.”だったり、「この傘を一寸持っててくれる」が“Hold this umbrella for me a minute. Will you?”だった。これらは「タオル」と「傘」を他の言葉に入れ替えれば、応用範囲が広がるのだ。このような勉強法は何も会話だけに使えるだけではないと思って頂きたい。何度でも言ってみて暗記すれば効果は必ず上がってくる。
このような例文で注意すべき点は、“for me”を必ず言わないと「自分の為にと言うか、代わりに」という点が明確にならないという英語独特のしつこさというか、日本語とは違う理屈っぽさだ。私はこのような点を叩き込まれたお陰で、今日があるのだと思っている。
例えば、「貴方の奥様に宜しくお伝え下さい」は、我が国では一般的に“Please give my best regards to your wife, Helen.”のように教えられているようだ。これでは通用しないとまでは決めつけない。だが、ここには“for me”が抜けているので、何処の誰が宜しくと言っているのか表現されていないと看做すのが英語なのである。この言い方は如何にも学校英語風で一寸堅苦しいので、一般的には“Say hello to Helen for me. Thanks.”というような形がごく当たり前のように使われている。これでは丁寧ではないと思う方は、頭に“please”を付ければ良いだろう。
誰かそう言ったかは記憶が定かではないが、「我が国の英語教育を本気で改革したければ、現在の英語教員を総入れ替えすれば良い」という議論があった。尤もであると思わせる点がある。だが、この世には入れ替えるべき能力を備えた教員がどれほどいるのだろうか。嘗て、私の英語教育改革論を渡部亮次郎氏が「頂門の一針」に掲載されたところ、同氏の友人で英語教師のグループを主宰しておられる方に「こんな理想論は非現実的で使えない。第一に、こういう英語を解って教えられる教員はいない」という批判が返ってきたことがあった。
私は現在の教え方が悪いとは指摘していない。それは教えている趣旨が実用的にしようという点にはないので、目指すところが会話能力にはないからだ。そうかと言って、誰も彼もが「英語ペラペラにしよう」と言うのもおかしな話なのだ。英語を極めてそれを活かす研究なり学問の道に進もうという人とか、外国の企業に進出して世界に羽ばたこうかとか、アメリカで弁護士になろうとか言うような明確な目的を持つ人たちが、懸命にnative speaker並みになろうと勉強すれば良いだけのこと。そこには理性も知性も教養も求められるし、当然のことで文化比較論の理解も必要になる。
そこまでの英語教育をしようとなれば、そこまでのとが出来る英語の教員が何処にどれほどいるのかという問題も生じるのだ。私は外国の会社にはこういう条件に適合する人物がおられるという経験をしてきたが、遺憾ながらそういう能力がある方々には、先ず高校以下の教員の資格がないのだ。かく申す私だって教職課程は取っていなかった。
20年以上も前のことだが、ある公開の席で「生徒たちに優劣の差をつける1から5までの段階の評価をする為に英語を教えているのだ。話せるようにしようとして教えていない」と言い切った女性の教師は偉いと思っている。そのような教育方針で育てられて、海外に出て「英語が通じなかった」と嘆き、学校教育を非難するのは筋が違うのだ。私はそう嘆いていた駐在員の人たちに「日本の学校教育を経てnative speakerと同様に話せたら、それは奇跡であり、その方は化け物でしょう」と言ってきた。「話せるように教えていないのだから、当たり前のこと」と解説した。
そういう教育法を小学校にまで下げていっても結果は変わらないだろうと保証する。また、外国人を連れてきて教えさせるのもほとんど無意味だ。彼らには「我々日本人が英語のどういう点で悩見且つ苦しんでいるかなど解る訳がない」のだから。これ以上は長くなるので別の機会に譲るが、要するに「何処の馬の骨かも解らない食い詰め者の外国人しかここまで来ない」と知って貰いたいのだ。トランプ大統領の支持層のような人たちの程度の英語を覚えては笑いものになるだけだ。財力も能力も教養もあるMBAやPh.D.が英語教師になろうと日本まで来るかということだ。
「英語で話せるようにしたいのか」という題名でも良いかと思う。私は日本全国津々浦々に英語学の権威者や英会話の達人がいる必要などないと思っている。そこで、私は本26日の産経新聞に掲載された「時評論壇」の「大学入試改革迷走を憂える」と題した論説委員・岡部伸氏の英語の学習についての記述を興味深く読んで、私の英語教育改革論にも少し触れてみようと思うに至った。
日本マイクロソフトの社長だった成毛真氏も言われたと記憶するが、誰も彼もが英語で話せるようにする必要もないと論じておられた。元新日鉄副社長の古賀憲介氏は「小学校から英語教育をと決まった」と嬉々として語った教育審議会(と言う名称だったか)の委員の発表を聞かれた後で、個人的に私に「万人に強制するべきことではない」と呟かれたのだった。この「小学校から」は愚かであると何度も何度も述べて来た。それは「現在の教育法をそのまま小学校に降ろしだのでは効果が挙がる訳がない」と思うからだ。
議論でも主張でもないが、私は1945年の旧制中学の1年生だった私に「英語だけで考えなさい。日本語に訳そうとしたり、言いたいことを先に日本語で考えてから英語にしようとしては駄目。英語ではこう言う時にはこう言えば良いのだと思って覚えておきなさい」と、何度でも英語だけで語りかけて下さったGHQの秘書で日系人だった方のような能力がある方が、基礎から教えていけば、我が国における英語力は変わって行くかも知れないと信じている。因みに、この秘書の方は完璧な日本語を話され、書道ではどのような書体でも書いておられたほど、日本人以上に日本人だった。
その方に教えられて未だに覚えている、ごく簡単な日常的な言い方を紹介しよう。「そこのタオルを持ってきて」が“Get me the towel over there, for me.”だったり、「この傘を一寸持っててくれる」が“Hold this umbrella for me a minute. Will you?”だった。これらは「タオル」と「傘」を他の言葉に入れ替えれば、応用範囲が広がるのだ。このような勉強法は何も会話だけに使えるだけではないと思って頂きたい。何度でも言ってみて暗記すれば効果は必ず上がってくる。
このような例文で注意すべき点は、“for me”を必ず言わないと「自分の為にと言うか、代わりに」という点が明確にならないという英語独特のしつこさというか、日本語とは違う理屈っぽさだ。私はこのような点を叩き込まれたお陰で、今日があるのだと思っている。
例えば、「貴方の奥様に宜しくお伝え下さい」は、我が国では一般的に“Please give my best regards to your wife, Helen.”のように教えられているようだ。これでは通用しないとまでは決めつけない。だが、ここには“for me”が抜けているので、何処の誰が宜しくと言っているのか表現されていないと看做すのが英語なのである。この言い方は如何にも学校英語風で一寸堅苦しいので、一般的には“Say hello to Helen for me. Thanks.”というような形がごく当たり前のように使われている。これでは丁寧ではないと思う方は、頭に“please”を付ければ良いだろう。
誰かそう言ったかは記憶が定かではないが、「我が国の英語教育を本気で改革したければ、現在の英語教員を総入れ替えすれば良い」という議論があった。尤もであると思わせる点がある。だが、この世には入れ替えるべき能力を備えた教員がどれほどいるのだろうか。嘗て、私の英語教育改革論を渡部亮次郎氏が「頂門の一針」に掲載されたところ、同氏の友人で英語教師のグループを主宰しておられる方に「こんな理想論は非現実的で使えない。第一に、こういう英語を解って教えられる教員はいない」という批判が返ってきたことがあった。
私は現在の教え方が悪いとは指摘していない。それは教えている趣旨が実用的にしようという点にはないので、目指すところが会話能力にはないからだ。そうかと言って、誰も彼もが「英語ペラペラにしよう」と言うのもおかしな話なのだ。英語を極めてそれを活かす研究なり学問の道に進もうという人とか、外国の企業に進出して世界に羽ばたこうかとか、アメリカで弁護士になろうとか言うような明確な目的を持つ人たちが、懸命にnative speaker並みになろうと勉強すれば良いだけのこと。そこには理性も知性も教養も求められるし、当然のことで文化比較論の理解も必要になる。
そこまでの英語教育をしようとなれば、そこまでのとが出来る英語の教員が何処にどれほどいるのかという問題も生じるのだ。私は外国の会社にはこういう条件に適合する人物がおられるという経験をしてきたが、遺憾ながらそういう能力がある方々には、先ず高校以下の教員の資格がないのだ。かく申す私だって教職課程は取っていなかった。
20年以上も前のことだが、ある公開の席で「生徒たちに優劣の差をつける1から5までの段階の評価をする為に英語を教えているのだ。話せるようにしようとして教えていない」と言い切った女性の教師は偉いと思っている。そのような教育方針で育てられて、海外に出て「英語が通じなかった」と嘆き、学校教育を非難するのは筋が違うのだ。私はそう嘆いていた駐在員の人たちに「日本の学校教育を経てnative speakerと同様に話せたら、それは奇跡であり、その方は化け物でしょう」と言ってきた。「話せるように教えていないのだから、当たり前のこと」と解説した。
そういう教育法を小学校にまで下げていっても結果は変わらないだろうと保証する。また、外国人を連れてきて教えさせるのもほとんど無意味だ。彼らには「我々日本人が英語のどういう点で悩見且つ苦しんでいるかなど解る訳がない」のだから。これ以上は長くなるので別の機会に譲るが、要するに「何処の馬の骨かも解らない食い詰め者の外国人しかここまで来ない」と知って貰いたいのだ。トランプ大統領の支持層のような人たちの程度の英語を覚えては笑いものになるだけだ。財力も能力も教養もあるMBAやPh.D.が英語教師になろうと日本まで来るかということだ。
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