時代に取り残された高齢者の戯言:
私は携帯電話が普及し始めた1990年代前半に「携帯電話は20世紀最悪の開発商品」と唱えてみたが、残念ながら何処からも賛意を表して貰えなかった。その頃でも、ディジタル化された時代に育ったというか、そういう機器に囲まれて育った子供たちの間には携帯電話は広まっていた。その世代が育って新聞を取らない、本を読まない、テレビは見ないという時代を構成していったようだ。
そこに、今世紀だったか何時だったか知らないが、AppleのSteve Jobsはスマートフォンを創り出したので、私は躊躇せずにタブレットも含めて暴論と承知して「21世紀最悪の開発商品」と決めつけることにした。そして、スマホは急速に凄まじい勢いで全国ではなく、全世代、就中子供たちの間に普及していった。これが良い傾向ではないことは明らかであっても。
シンガポールやデンマークでは既に小中学校で電子機器を教材に使うのを止めさせたと報じられている時に、我が国では予算を計上してまでもタブレットを使ってのディジタル化教育を推進しようとしている。時代に取り残されてスマートフォンの使い方すら覚束ない私でも、この傾向が好ましいとは思えない。恰もFRBが下げようとする金利を上げようとする流れにも似ているようなので。
私は学齢に達した程度の年齢の子供たちにもスマートフォンを買い与えている親御さんたちを見ると「幼児を持つ親世代の質が劣化したのではないのか。彼等が命名する読めない名前というか、キラキラネームの漢字濫用の日進月歩の様を見よ」と言いたくなる。子供たちに「みんなが持っている」と迫られれば買い与えざるを得ないのだろうと思っている。
このような全世代へのスマートフォンの普及は「遂にSNSを通じて、選挙の票の流れを左右するまでに大きくなってしまった」かのようなのだ。兵庫県斎藤前知事の当選はあり得るかも知れないと予想していたら、現実になってしまったのは、そういう時代の流れがなせる技かと思っている。
今やスマートフォンの使い方を心得て駆使すれば、多種多様の情報が自由自在に手に入る時代になってしまったようだ。即ち、自分の頭で物事を考えることを放棄したかの感が濃厚な世代が出てきたのではないか。彼等は新聞も読まず、本も読まず、テレビも見ないでスマートフォンを情報源として、何処の馬の骨が広めたのかも不明なSNS等からの情報/話題に飛びついていると疑っている。
当方は「スマートフォンは二つ折り式の携帯電話の代わりに持ち歩いているだけでも、指の運び方を間違えなければ、即座に検索が出来るし、SMSだって使えるくらいは承知している。だが、そこまでのことでSNSなどから入ってくる情報の影響など受けようもないのが残念だ。
だが、私のような旧世代に属する者は「情報は自分で動いて収集し、それを咀嚼して、自分のものとして発信するのがあるべき姿である」を旨としているのだ。だから、老化したとは言え長年旧式で鍛えてきた頭脳で情報を創造して、PCに頼ってブログの形で毎日発信している。70歳で思いがけない事情でPCを使い始めた時点で「時代に追いつけた」と思えば、スマートフォンが出てきてまたもや置いてきぼりにされた。
最早偶にしか利用しない電車等の乗り物の中で観察してみれば、現代人たちは座るや否や忙しげにスマホとやらのスクリーンに触れ始める。何を急ぐのかと、覗ければ覗いてみれば、真剣に内容を読んでいる者などは例外的で、LINEの流れを遡ってみているとか、漫画を見ているとか、色々な写真を楽しげに見ているだけなのだ。必要に迫られていない連中が多いようだ。
ある調査で「何の為にスマホを取り出すのか」と訊かれた者たちが「手持ち無沙汰だから」というのが最も多かったとのことだった。もう電車の中で日経新聞を熟読している世代すら見かけなくなった。ウエブ版が普及したのだろうか。
「スマホに没頭することが子供の脳の発達の妨げになるから、教育の現場で確りと制限せよ」との真剣な声が上がっているようではある。だが、現在のようにスマートフォンが普及し、恰も全世代が依存している時代になってしまったのだから、手遅れではないかと思わざるを得ない。Jobsさんの「中国と日本の次世代を骨抜きにしてやろうか」との企みは、所期の目的を達成したかのようで残念だ。
私は「民度」という点では平均的に見て「我が国はアメリカと中国よりは圧倒的に高い」と確信して良いと思っている。その折角高い民度がスマートフォンのような機器の普及で劣化し始めたかのようで、危機ではないかとすら感じている。そこには教育の問題もあると思う。即ち、先生が教えるだけではなく、自分で何を追求するかを考える力を養う必要があるという事。
長年の付き合いがある大学教授が「今時の学生はスマートフォンのソフト(ワープロ機能というのか?)を使って論文を書いてしまう時代になった」と言っておられた。ある週刊誌では英語の教師が「生徒の中には翻訳ソフトを使って英作文の課題をこなしてくる者がいる」と嘆いていたとあった。「そういう時代になったのか」と感心している。だが、そう言って感心していて良いのだろうか。
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