新宿少数民族の声

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3月22日 その2 何故「母校」になったのだろう

2021-03-22 14:51:28 | コラム
甲子園野球の零れ話:

NHKでは出場している高校の校歌を試合途中の2回に聞かせてくれ、画面には歌詞が表示される。本日も2試合弱見て(聞いて?)いて気が付いた事があった。それは殆どの場合歌詞に「我が母校」か「母校」が入っている事だった。私は余りこの熟語に関心がなかったが、何時の事だったか、または何方だったかの記憶は定かではないが「『母校』とは出身校を意味していて、在学している学校を指していない」と指摘されたのを見ていた。恥を忍んで正直に言えば「へー、そうだったのか」と感じたのだった。広辞苑にも「自分が学んで卒業した学校、出身校」となっている。

実は、そうと知った後の事だったが、偶に見る東京六大学の野球の試合の中継で聞こえてくる、観客席に陣取った応援指導部なる者たちが仰向いて指揮をする多くの大学の校歌の歌詞には「母校」となっているのだった。例えば早稲田大学は「聳ゆる甍は我らが母校」だし、明治大学では「おー明治、その名ぞ我らが母校」であり、法政大学では冒頭に「法政、おう我が母校」と来るのだ。と言う事は「母校」の誤用にはかなり長い歴史があった事になってしまう。思うに、これらの大学の格調高い校歌の歌詞に影響された作詞家たちが、躊躇う事なく高校の歌詞にも採用したのだろう。

そこで、嫌味を言う意図などなく考えて見た。即ち、「母校が言葉の誤用であれば、その代わりに如何なる熟語を当て嵌めて、尚且つ全体の流れに影響を与えないように出来るのか」との点である。例えば「聳ゆる甍は我らが大学」では様にならない。「おー明治、その名ぞ我らが学び舎」では字余りだ。また「法政、おう我が学府」では何となく意味が違う気もする。実は、我が母校の上智大学では、如何にもその成り立ちを表すが如くにラテン語で“alma mater”となっている。だが、これまた「母校」を意味しているのだ。

事ここに至れば、「言葉を大切にしよう」と常に主張するこの私も「歌詞の流れとして母校が据わりが良いのであれば、仕方がないか」と諦めの心境だ。しかし、矢張り他にも屡々誤用されているというか、混同されている熟語を挙げておこう。それは、テレビに登場する芸人たちが屡々高校在学中の事を称して「学生時代」と言うが、学生は大学生の意味であり、高校生と中学生は「生徒」であり、小学校の子供は「児童」と呼称するのが正しいと、専門家が指摘されたのを聞いている。広辞苑にもそのように出ている。この三つを混同するのは国語教育の問題だと思ってる。



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