新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

内面と外面

2020-05-22 08:20:39 | コラム
上からの覚えが目出度いのは何れか:

つい最近何処かの週刊誌ででも読んだか定かではないが、私が新型コロナ問題が発生して以来重要な担当大臣になっている西村康稔氏と加藤勝信氏の評価が内部では高いと知った。だが、私はこの両大臣を「この国家的な大危機に際して頼むに足らず」と口を極めて批判してきた。

即ち、西村康稔大臣はお利口さんの責任回避型であり、加藤勝信厚労相にも同様な欠陥があって、このお二方が本当に将来の総理候補だと言われているのであれば、それは安倍総理か官邸のとんでもないお眼鏡違いだと扱き下ろしてきた。尤も、今では加藤氏は責任回避型と言うよりも「人を見下している嫌みな奴」と見るのが正確だと思っているが。

そこで「お眼鏡違い論」である。私は少なくとも45年以上もの間、我が国とアメリカの会社の優れた人材とその評価でも良いかも知れないが、どのように出世というか昇進して行くかの在り方を見てきた。ここでいきなり感想と結論を言ってしまえば、我が国に会社では「取引先として一定期間に外部から見ていて、彼こそは次期管理職者への昇進が当然、乃至は役員に任命されるだろう」と高く評価してきた方々が昇進される割合は、恐らく1割にも満たなかったと思っている。

この点ではアメリカの会社でもほぼ同様で、私が所属した事業部内では辣腕の副社長がそういう人事はしなかったが、本社内で関係してきた他の事業部では、矢張り彼こそは次期本部長かと評価するやり手が昇進した例は極めて少なかった。W社内部では副社長に任命するか重要な地位に抜擢される者は、先ずハーバードのビジネススクールの短期コースに派遣されるか、修士号を持っていない者の場合は、ビジネススクールの2年間のコースに入っていくので、外から見ても出世コースに乗ったと解るのだ。しかし、多くの場合は「何で彼が?」と思わせられたものだった。

そこで、西村と加藤の両氏だが、少なくとも私にはとても「この人物に我が国の将来を託そうか」と思わせてくれるような「頼り甲斐」は薬にしたくとも見出せない。昨日も西村氏は「25日に首都圏を解除するか否かは、専門家のご意見を頂戴して」と言っていた。何度でも言うが本末転倒だ。専門家会議が閣僚の上に位するはずがないだろう。総理も先日の記者会見で尾身茂副座長(諮問委員会会長)にマイクを譲る際に「ここからは尾身先生に」と敬称を付ける謙り振りだったのは失望した。西村氏には「国家の命運を担っている」くらいの覚悟が欲しい。尾身氏に担わせてどうする。

ここまでで何を言いたかったのかとなるが、それはこの二人の大臣は「上」という官邸の何とか言う総理の補佐官の覚えがめでたいという点を指摘したいのだ。そこで高い評価をさえ得ていれば責任逃れ発言に終始しようと、他人を見下して「俺様は上司に認められているのだ」とばかりに誇示して人を見下すような人物には期待できない、イヤ期待したくない」のだ。ここをもう少し突っ込んでみると「上」には人というか部下を評価する眼力がないという意味になる。補佐官も官僚出身のようだから、責任回避術に長けておられるのかと、あらぬ疑いもかけたくなってしまう。

我が国の政府というか官邸の組織には「下から言うべき事を後難を恐れずに具申できるような仕組みになっているのか」と思ってしまう。そういうことを「上」に言いに行くのは途方もない度胸を要するし、自らの職を賭けることかも知れない。でも、私はあのままこの二人のような内面が良い者が蔓延るのが得策とは思えないのだ。一歩譲って一般論として「官邸等の人の上に立つ組織では正しく公平に査定すべきではないのか」と言いたい。アメリカの組織では上司の査定だけではなく、同僚による評価も加えている制度がある。「上」はこの際「外面」も勘案すべきではないのか。



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