杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

岩槻邦男著「生命系」を読んで

2012-02-10 13:49:00 | 本と雑誌

 先日、富士山特集の取材でお会いした岩槻邦男先生。理学博士で東大名誉教授という肩書きを見て、最初はとても会話にならないんじゃないかとビビりましたが(苦笑)、とてもお優しくて柔和で、私の浅学非才ぶりにはお構いなしにマイペースでお話してくださったので、とても有難かったです。

 

 

 先生は日本ユネスコ協会の会員で、環境省が2003年に設置した世界自然遺産候補地についての検討会の座長を務められました。2月23日富士山の日にグランシップで開催される『富士山世界文化遺産フォーラム』にもパネリストのお一人として参加されます。

 

 

 先生曰く、「富士山は自然遺産になれないから文化遺産に乗り換えた」という認識は誤りで、03年の自然遺産検討会で選ばれた19の候補地にもエントリーされています。19の中からは、知床と小笠原が先んじて推薦→登録をはたし、現在は琉球諸島が2013年の暫定リスト入りを目指しています。後回しにされたからって富士山がダメだというわけではないんですね。その辺の誤解も、フォーラムの席上でお話になると思いますので、参加予定の方はご期待ください。

 

 

 さて、先生にお会いする前に、何冊か著書に目を通した中で、理系の苦手な私にも面白くって、いろいろな意味で深く考えさせられたのが、『生命系ー生物多様性の新しい考え』(岩波書店)でした。

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 “生態系”は聞き慣れているけど、「生命系」って面白い表現ですね。今、地球上に生きる生物の生息状態を指す“生態系”や、分子・細胞・個体・生態系とレベルをあげて生物の世界を空間的に包括した“生物圏”という概念に、系統という進化の歴史を統括した考えのようです。空間+時間というわけですね。

 

 

 地球上には30数億年前に生命が誕生して以来、地球上のさまざまな環境に適応しながら多様化していきました。認知されているだけで150万種の生物がいて(実際は億単位)、どの生物も、途中で何らかの形で他(宇宙とか?)から参入したものはいません。高等生物は有性生殖によって、つまり地球の有性生殖集団の掟にしたがって、みんなで一緒に進化の道を歩いてきたわけですね。

 ふだん食べる米も野菜も肉も魚も同じ。みんな30億年の生命を生き、進化の歴史を共有してきました。「あらゆる生物の個体は、1年と持ち続けることはない原子を寄せ集めた仮の生命体に、その生命を預けている。生物が生きているという事実は、それらの諸相を統合したひとつの実在を演じているということなのである」-とても印象的な一文です。

 

 

 ちなみにヒトの身体を構成する原子のほとんどは平均3カ月で置き換わり、1年経てばぜんぶ換わっているそうです。ワタシって、1年前のワタシとは別の個体なんですね。つまり、ワタシの生物学的年齢は、1歳といえるし、30数億歳ということもできる。・・・すごーく不思議な気分です。

 

 

 

 まあ、私たちは幸か不幸か、たまたまDNAを構成する塩基の数と配列の結果としてヒトになったけど、牛や豚や魚やゴキブリになってたかもしれないし、魚を食べれば魚の原子が身体に入り込む。今のワタシの身体の原子は、昨日まで海を泳いでいた魚のものだったわけです。そう考えると、何を食べるかって、ものすごい意味のあることですね・・・。

 

 

 先生は「それにもかかわらず、君は何の某という個性を強調する。個人としての尊厳を主張する。それはよろしい。強く主張してほしい。(中略)しかし自分という存在が、30数億年の生を生き抜いてきた生命によってつくられている生物であり、今日たまたま自分と言う特定の生命担架体を構成することになった原子たちの集合で自分の身体がつくられているという事実にも忠実でありたいのである」と語りかけます。

 

 「すべての生物の生命は30数億年の歴史をもち、すべての生命体はいまという瞬間にだけ自分に固有である原子の集合体としてつくられている。その意味で、すべての生物の生は、時間と言う枠にとらわれない実体で、永遠の存在としての生命を、一瞬間も同じ組み合わせではない原子によってつくられた担架体に預けている。しかも、地球上における生命の創成以来、すべての生物種は系統と呼ばれる親戚関係で結び合わされている。すべての生物は今日の日を一個体だけでは生きていけない。他の個体や他の生物種と共同し、相互に直接的・間接的な関係を維持しながら、いまという一瞬を生きている」・・・とても美しい一節です。

 

 

 その上で、環境創成について重い言葉をつづられています。

 「今という瞬間をその瞬間だけで判断してはならない。今はあくまでも歴史的展開の一断面としての今である。過去と未来を無視した現在はない。(中略)時空を超えた生を生きるための技術を開発するために、私たちは最大の努力をすべきである」

 

 「開発事業などに関わる人たちは、3年先のことは見えてこないという。海外への開発援助については、時のアセスメントが話題になるように、わずか数年の計画の実現の過程においてさえ、見直しを必要とする事例があるという。時空を超えて、などといえるような話ではない。事業そのものが消耗品なのである。恐ろしい現実ではないか。開発事業は、子孫の時代にまで益をもたらす成果を結ぶものであってほしい。(中略)孫や子の時代のことは、孫や子が自分たちで考えられるようであってほしい。彼らの時代になって、親や祖父母の犯した行為の後始末しかできないような地球をつくることは回避したい」。

 

 

 生命系という概念を提唱される先生だからこそ、「開発事業は消耗品」という言葉が出てくるのでしょうね。富士山を自然遺産としては不適格・・・なんて安易にレッテルを貼る人がいたとしたら、世界遺産登録運動を消耗品化にするなと言いたくなります。

 

 

 本書を学生の頃読んでいたら、深刻に考え過ぎて社会を信用できないネクラになっていたかもしれないけど、ずいぶん神経も図太くなったのか、「私って50回生まれ変わっているんだ・・・」な~んて自分の身体を愛おしく感じています。いずれにしても、年に1度は必ず読み直したくなる、素晴らしい本でした。