杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

朝鮮通信使の東海道難所越え(その2)~箱根峠

2012-05-06 12:58:10 | 朝鮮通信使

 薩埵峠をなんとか通過した朝鮮通信使一行ですが、さらなる難所・箱根峠が待っています。ここでまた北村先生が、通信使側の日記・使行録から、箱根峠越えの箇所をピックアップしてくれました。とくに注目すべき回を挙げてみると―

 

第3回(1624年12月10日通過) 「嶺の道は高く険しく、富士山と相対しており、天外の群峰は皆眼前にあった。細竹は山に満ち満ちてあり、喬木は天にまじわり、日本の大きな嶺である。麓から頂上まで四里を下らなかった。昨夜から雪が降り、嶺の道がひどくぬかるみ、竹を切って雪をおおったので、乾いた地を踏むようであった。一夜の間にこれを整えたが、たとえ命令が神速であるとはいえ、また物力の豊富な事がわかる。その道に敷いた細竹は、皆矢を作るものであり、嶺の上には人家が数十戸あった」

 

第5回(1643年7月4日通過) 「箱根嶺に到着した。すなわち富士山の東の麓で、日本で最も大きい嶺である。嶺の道は険しくて長く、時に長雨の季節なので泥土のぬかるみが脛までも沈めた。数里の間の行く道には、皆竹を編んで敷いてあったが、その尽力を多く浪費したことを見る事が出来る」

 

 

 

 この2回の記述で、峠道に竹を編んだカーペット?のようなものを敷き、仮の舗装をしたことがわかります。しかも前日に雪が降ったり雨でぬかるみになってから、ひと晩で敷き詰めたみたい。…大変な突貫工事だったことが想像できます。

 

 この竹は箱根山に群生するハコネダケといわれる細竹で、道に敷き詰めるには1万7千~8千束が必要で、しかも腐りやすいので毎年敷き替えなければなりません。敷き替えに投じられた人員は約3千人。工費は約130両。これを負担したのは、なぜか箱根からほど遠い西伊豆~南伊豆(今の宇久須・松崎・南伊豆・下田・河津)の85の村々でした。伊豆は三島代官の支配下にあり、東海道の整備に、いいように駆り出されていたんですね。

 数十年に1回の通信使通行の時だけならまだしも、東海道はふだんから参勤交代の大名行列や一般の人々も使います。毎年毎年の普請では負担が大きすぎるということで、延宝8年(1680)、石畳が敷かれることになりました。

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 石畳整備事業にかかる費用は、ざっと見積もって1400両。幕府は、伊豆の85ケ村に、竹普請を免除する代わりに向こう10年間で年100両ずつ支出せよと命じます。しかもうまく考えたもので、幕府は伊豆一国に年1割5分の金利で強制貸付をし、ここから工費1406両をねん出して工事を請け負った江戸の土建業者(今で言うゼネコンか?)たちに支払います。残金200両余りを原資として、「国中御貸付石道金」と称して金利年1割5分で国中に貸し付け、その利息によって石畳の維持管理を行ったのです。ざっくり考えれば、今で言う、目的税みたいなものでしょうか。

 

 

 石畳の工事ならびに箱根道の整備事業は、実際は駿東郡の村々が請け負ったと御殿場市史や小山町史に記されています。ちなみに駿東郡の村々は、宝永山の噴火(1707)で壊滅的な被害を受けました。

 

 

 

 

 さて、石畳が整備されて以降の使行録をピックアップすると―

 

 第9回(1719年) 「はじめて箱根嶺に及ぶ。嶺路は険にしてかつ峻、轎をかつぐ者は力を極めて登り、たびたび人をかえては休息する。それでもなお呼吸が喘急である。輿中から雨森東が下馬して歩行するを見る。余は笑いながら曰く「何ぞ白頭拾遺でも作るつもりか」。雨森曰く「この嶺は奇険、馬をもってすれば我を傷つけるを恐れ、輿をもってすれば人を傷つけるを恐る。みずから労するに如くはない」。かくの如くに四十里を行き、上頭に到る」

 

 雨森東というのは、朝鮮通信使ファンにはお馴染み・儒学者で対馬藩の外交官雨森芳洲のことで、第9回使行録を書いた申維翰とのやり取りの場面。芳洲が馬から降りて歩いて峠越えをしているのを見て、申維翰が「なんだ、白頭拾遺(杜甫の詩で、貧乏役人の悲哀を謳った一節)のつもりか?」とからかうと、「この峠道は危険で、落馬するかもしれないし、輿は他人を怪我させるかもしれない。自分が汗を流すほうがましだ」と応えた・・・というところでしょうか。互いの教養の高さもしのばれますね。

 

 

 

 

 第10回(1748) 「箱根嶺に至った。ぐるぐる折れ曲がって回り、ゆっくり登ったが駕籠かきの外にはまたその站(停留所)の日本人の壮丁(壮年の男)を出し、木綿で駕籠の担ぎ棒に結んで引っ張って上げる。嶺の上には村が時々在って板屋を設けて置き酒と茶を売る処も在ると言う。山中の村に至ると暫時休憩する所を準備して迎え入れた、即ち東月山宗聞寺であり、屏帳が皆整備されていて、茶菓を準備していた。庭の中には黄楊子二株を植えて銅の針金で枝と葉を結んで、或いは丸い扇子の形を作ったり、また暎山紅を手入れして角のある生け垣を作ったりして、花も真っ盛りで、珍木な樹木は生い茂り、変わった鳥達が清い声で囀り、此処は車を停めて楽しむべきところである」

 

 

 ここに出てくる東月山普光院宗閑寺というのは、徳川家康の祖母が眠る華陽院(駿府)住職の了的上人が建てた寺。かつて秀吉の小田原攻めのとき山中城の副将として戦い、戦死した北条家の家臣間宮豊前守康俊の娘(お久の方)はのちに家康の側室となり、家康に山中城三の丸址に亡父の菩提寺を建てたいと懇願。その意を汲んだのが了的上人というわけです。

 

 朝鮮通信使を招聘して日朝平和外交の基礎を築いた徳川家康ゆかりの寺院だけあって、迎える方も丁重だし、通信使側も満足していたようですね。厳しい峠越えと思われていた箱根路で、ほんのひとときでもくつろぐことができてよかったな・・・と思います。

 

 

 それにしても、竹道やら石畳やら、箱根峠道の整備事業には、今の静岡県東部~伊豆全域の民衆の労力が費やされたと思うと、大変な公共事業だったんですね。でも幕府に一方的に酷使されたわけではなく、民衆は「毎年の負担は大変なんです!」と言うべきことはきちんと言って、幕府側もそれに善処した形にもなっているわけで、徳川幕府が長期安定政権を築けた理由が垣間見える気がします。

 

 歴史から学ぶこと、本当にまだまだたくさんありますね。